血の染み付いた手帳
しがない傭兵が偽りの島で過ごした日々の記録
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05310302 | Day04 -暗中- |
-0-
「う、ん……。」
悩ましげなうめきをあげて、恭平はひっそりと目を覚ました。
林の中に群立する背の高い木立の上、蔦を編みこんで作った恭平お手製のハンモックが揺れている。
昨夜はこの上で、大きな葉を編み込んで作った布団に包まって眠りについた。
樹上に生活する獣もいないではないが、安全性は地上の比ではない。
なによりも、恐ろしいのは人間だ。
他の冒険者を警戒して、周辺に侵入者察知用のトラップを仕掛けることも忘れてはいない。
また、下から上を見上げても、巧妙なカモフラージュによってハンモックを見つけることは難しい。
最大の問題は虫たちだが、虫除けの効果がある草の汁を衣服と身体に塗りたくっている。
そのおかげか、夜の間に虫に悩まされることもなかった。
目覚めは爽快だ。
「……もう、こんな、時間、か。」
薄緑色の草汁でペインティングされた顔を天に向けて、恭平は身を起こす。
どこか眼がぼんやりと霞んでいるのは疲れているためか。
傷は癒えても、蓄積された疲れまでが回復するわけではない。
遺跡の中に訪れているのは、朝の時。
枝葉の隙間からは木漏れ日が漏れ、地下遺跡とは思えない爽やかな風が葉を揺らす。
差し込んだ木漏れ日が、恭平の金髪に反射して一瞬の輝きを放った。
許されるのであれば、この朝のひと時を楽しみたいところだが……。
定められた時間だ。出立しなければならない。
己を律することのできないものに、任務など果たせるわけがないのだ。
「ん……。」
寝ている間に硬くなった筋肉を意識して、ゆっくり伸びをしながらときほぐす。
朝の日課であるトレーニングをしている暇はなさそうだ。これぐらいはしておかなくては。
「……よし。」
およそ十分の時間をかけてストレッチを終えた。
そろそろ出発しなければならない。
ぶらぶらと揺れる不安定なハンモックの上に、恭平は器用に立ち上がる。
次いで、近くの枝に結ばれた蔦を掴み、たわむハンモックを蹴って宙に身を躍らせた。
空中で振り向きざまに短剣を一閃、木々に張り巡らせた蔦を断ち、夜営の痕跡を消す。
バラバラ と蔦が落ち、ハンモックの残骸は大地に転々とした枝葉に混じって分からなくなった。
「くぅ……。」
微妙に調節された蔦を渡って、下へ下へと降りていく。
トン と、大地へ降り立った衝撃に、ペインティングされた顔をしかめた。
「……くそ、たんまり痛めつけやがって。」
昨日、遭遇した二体の植物人間は、植物とは思えない体躯の持ち主だった。
自然、その闘いは壮絶な肉弾戦となる。
打ち据えられた拳は思いのほか重く、身体の至るところに痣を作った。
一夜明けて、表面上の痣は跡さえも残っていないが、肉体に残されたダメージは重い。
打たれた箇所にズキズキとした痛みがはしる。
とりわけ胸骨に鋭い痛み。
これは、ヒビがはいっているかもしれない。
遺跡の中では驚くほどに傷の回復が早いが、それにも限度があるのだろう。
外よりも身体を気にすることもないが、だからといって無茶はできない。
それに慣れてしまっては、外へと戻ったときに危険がある。
「……行くか。」
痛む箇所をおさえて、ものの数秒で痛みは引いた。
枯れ草のカモフラージュを取り除き、掘った穴に隠された荷物を取り出して肩に担ぐ。
地図を広げて見れば、ずいぶんと表示されているエリアが広がっていた。
他の冒険者に比べて、かなり出遅れてしまったようだ。今日から、多少なりとも急ぐ必要があるだろう。
冒険者の接近を察知したターゲットが、遺跡の奥へと逃げてしまう恐れもある。
慎重になった相手ほど、手強いものはない。
「…………。」
気持ちを切り替えて息を深く吐くと、恭平は林の中を南へと向けて駆け出した。
視界の先には、さらに深い森が広がっている。
-1-
森の奥深く、沼のほとりにゆらゆらと淡い焔が揺れている。
東国にある祖母の祖国ではそれを鬼火と呼び、恨みをもって死んだ人間の魂と考えているらしい。
生者のぬくもりが恨めしくて、鬼火は光ささぬ森を彷徨うのだろう。
「……化け物め。」
己の臭いを隠すため、沼地に半身を沈めて、恭平は息を潜めていた。
その目と鼻の先で鬼火は明滅を繰り返し、哀れな犠牲者の生命を奪おうとしていた。
宙に身を浮かべた鬼火の足元に、一頭の雌鹿が倒れている。
沼へと水を求めてやって来て、運悪く鬼火と遭遇してしまったのだろう。
生命を恨む鬼火にとって、雌鹿は程よい獲物と映ったに違いない。
ジジ―ジジジ、ジジ――。
鬼火が発する耳障りな音は、復讐者のあげる歓喜の声か。
「……。」
恭平はそれを見届けるほかに術もない。
鬼火は雌鹿の精気を吸い尽くすと、ゆらゆらと森の奥深くへ姿を消した。
完全にその姿が闇に溶けるのを見送って、恭平は肺に詰まっていた息を深く静かに吐き戻す。
水音をたてないよう注意深く沼から身体を引き上げ、ぬかるんだ地面に膝をついた。
沼の水に濡れた身体には、身体の心まで凍るような怖気が残っている。
あれは危険な相手だった。今の自分で、正面から戦える相手ではない。
「くそ……。」
倒れた雌鹿の近くまで寄るが、既に事切れていた。
そっと、その目蓋を閉じてやる。
墓を作ってやる余裕はない。
先ほど、鬼火を一目見たとき、傭兵としての経験が恐るべき相手だと警鐘を鳴らした。
相手の力量を看破することも、傭兵に必要とされる能力の一つ。
情けない臆病者と自評する恭平は、その感覚には絶対の信頼を置いていた。
奴――鬼火――とは、まだ戦ってはならない。
義憤に駆られて戦いを挑むことはできる。だが、それでは無駄死にだ。
結果として、雌鹿の横に恭平の死体が並ぶに過ぎなかっただろう。
「――ここは危険すぎる。」
そう認めざるを得なかった。
深く暗い森は、恭平の侵入を阻む強大な要塞だった。
徘徊する鬼火、岩陰に潜む大ナメクジ、ブッシュに潜む野獣たち。
どれも、現在の恭平の許容を超えている。
身を潜め、息を殺し、ときには全力で逃亡し、どうにか進んできた。
しかし、いずれ辿り着くのは、この雌鹿のような哀れな末路だろう。
早く、この森から抜け出さなくては――。
ただし、後戻りは、ない。
「……急ごう。」
雌鹿の亡骸を沼のほとりに残して、姿勢を低く恭平は歩き出した。
地を這う蜥蜴のように……。
-2-
前方に明かりが広がっていた。森林の出口に辿り着いたのだ。
ここから一歩出れば、そこは陽のあたる平原だろう。
そこまでおよそ1千メートル。
だが、そこまでの距離が今の恭平には無限にも思える。
「ちぃ、間に合うか……。」
背後へと感覚の糸を伸ばしながら、
枝葉で肌を傷つけることも厭わずに恭平は森の中を全力で駆けていた。
背後から、それは徐々に近づきつつあった。
その正体は芒洋としてしれないが、森林に潜む野獣の類ではあろう。
恭平に分かることは、そいつが怒りに我を忘れているということだけだ。
「……。」
恭平は全力で走るが、獣と人とでは覆せない差がある。
少しずつ、少しずつ、その距離は詰まってきている。
残り、5百メートル。
衝突は避け得ないだろう。
だがしかし、森の中で戦うことは避けたい。
いかな恭平といえど、この森林の中で地の利は相手にあると言えた。
身を隠す場所がなく、陽に照らされた平原で迎え撃つ。
あとは、なるようにしかならないだろう。
「……見えた。」
残り、1百メートル。
乱立する木々の密度が薄れ、平原の風がここまで流れ込んでいる。
背後から獣の唸り声。
風にのった恭平の匂いに反応したのであろう。
その声は、ほんのすぐ後ろから、もはや獣との間に距離はない。
「くっ……。」
その距離は零。
頭から飛び込むようにして、平原へと身体を投げ出した。
大地を転がるようにして反転、森から飛び出してくる野獣を迎え撃つ。
強制的に息を整えて、恭平は短剣を抜き放ち、森の闇を見据えた。
慣れない陽の光にたじろぐようにして、そいつは姿を現した。
哀しいまでに狂おしい、怒りが、恭平を貫いた――。
「う、ん……。」
悩ましげなうめきをあげて、恭平はひっそりと目を覚ました。
林の中に群立する背の高い木立の上、蔦を編みこんで作った恭平お手製のハンモックが揺れている。
昨夜はこの上で、大きな葉を編み込んで作った布団に包まって眠りについた。
樹上に生活する獣もいないではないが、安全性は地上の比ではない。
なによりも、恐ろしいのは人間だ。
他の冒険者を警戒して、周辺に侵入者察知用のトラップを仕掛けることも忘れてはいない。
また、下から上を見上げても、巧妙なカモフラージュによってハンモックを見つけることは難しい。
最大の問題は虫たちだが、虫除けの効果がある草の汁を衣服と身体に塗りたくっている。
そのおかげか、夜の間に虫に悩まされることもなかった。
目覚めは爽快だ。
「……もう、こんな、時間、か。」
薄緑色の草汁でペインティングされた顔を天に向けて、恭平は身を起こす。
どこか眼がぼんやりと霞んでいるのは疲れているためか。
傷は癒えても、蓄積された疲れまでが回復するわけではない。
遺跡の中に訪れているのは、朝の時。
枝葉の隙間からは木漏れ日が漏れ、地下遺跡とは思えない爽やかな風が葉を揺らす。
差し込んだ木漏れ日が、恭平の金髪に反射して一瞬の輝きを放った。
許されるのであれば、この朝のひと時を楽しみたいところだが……。
定められた時間だ。出立しなければならない。
己を律することのできないものに、任務など果たせるわけがないのだ。
「ん……。」
寝ている間に硬くなった筋肉を意識して、ゆっくり伸びをしながらときほぐす。
朝の日課であるトレーニングをしている暇はなさそうだ。これぐらいはしておかなくては。
「……よし。」
およそ十分の時間をかけてストレッチを終えた。
そろそろ出発しなければならない。
ぶらぶらと揺れる不安定なハンモックの上に、恭平は器用に立ち上がる。
次いで、近くの枝に結ばれた蔦を掴み、たわむハンモックを蹴って宙に身を躍らせた。
空中で振り向きざまに短剣を一閃、木々に張り巡らせた蔦を断ち、夜営の痕跡を消す。
バラバラ と蔦が落ち、ハンモックの残骸は大地に転々とした枝葉に混じって分からなくなった。
「くぅ……。」
微妙に調節された蔦を渡って、下へ下へと降りていく。
トン と、大地へ降り立った衝撃に、ペインティングされた顔をしかめた。
「……くそ、たんまり痛めつけやがって。」
昨日、遭遇した二体の植物人間は、植物とは思えない体躯の持ち主だった。
自然、その闘いは壮絶な肉弾戦となる。
打ち据えられた拳は思いのほか重く、身体の至るところに痣を作った。
一夜明けて、表面上の痣は跡さえも残っていないが、肉体に残されたダメージは重い。
打たれた箇所にズキズキとした痛みがはしる。
とりわけ胸骨に鋭い痛み。
これは、ヒビがはいっているかもしれない。
遺跡の中では驚くほどに傷の回復が早いが、それにも限度があるのだろう。
外よりも身体を気にすることもないが、だからといって無茶はできない。
それに慣れてしまっては、外へと戻ったときに危険がある。
「……行くか。」
痛む箇所をおさえて、ものの数秒で痛みは引いた。
枯れ草のカモフラージュを取り除き、掘った穴に隠された荷物を取り出して肩に担ぐ。
地図を広げて見れば、ずいぶんと表示されているエリアが広がっていた。
他の冒険者に比べて、かなり出遅れてしまったようだ。今日から、多少なりとも急ぐ必要があるだろう。
冒険者の接近を察知したターゲットが、遺跡の奥へと逃げてしまう恐れもある。
慎重になった相手ほど、手強いものはない。
「…………。」
気持ちを切り替えて息を深く吐くと、恭平は林の中を南へと向けて駆け出した。
視界の先には、さらに深い森が広がっている。
-1-
森の奥深く、沼のほとりにゆらゆらと淡い焔が揺れている。
東国にある祖母の祖国ではそれを鬼火と呼び、恨みをもって死んだ人間の魂と考えているらしい。
生者のぬくもりが恨めしくて、鬼火は光ささぬ森を彷徨うのだろう。
「……化け物め。」
己の臭いを隠すため、沼地に半身を沈めて、恭平は息を潜めていた。
その目と鼻の先で鬼火は明滅を繰り返し、哀れな犠牲者の生命を奪おうとしていた。
宙に身を浮かべた鬼火の足元に、一頭の雌鹿が倒れている。
沼へと水を求めてやって来て、運悪く鬼火と遭遇してしまったのだろう。
生命を恨む鬼火にとって、雌鹿は程よい獲物と映ったに違いない。
ジジ―ジジジ、ジジ――。
鬼火が発する耳障りな音は、復讐者のあげる歓喜の声か。
「……。」
恭平はそれを見届けるほかに術もない。
鬼火は雌鹿の精気を吸い尽くすと、ゆらゆらと森の奥深くへ姿を消した。
完全にその姿が闇に溶けるのを見送って、恭平は肺に詰まっていた息を深く静かに吐き戻す。
水音をたてないよう注意深く沼から身体を引き上げ、ぬかるんだ地面に膝をついた。
沼の水に濡れた身体には、身体の心まで凍るような怖気が残っている。
あれは危険な相手だった。今の自分で、正面から戦える相手ではない。
「くそ……。」
倒れた雌鹿の近くまで寄るが、既に事切れていた。
そっと、その目蓋を閉じてやる。
墓を作ってやる余裕はない。
先ほど、鬼火を一目見たとき、傭兵としての経験が恐るべき相手だと警鐘を鳴らした。
相手の力量を看破することも、傭兵に必要とされる能力の一つ。
情けない臆病者と自評する恭平は、その感覚には絶対の信頼を置いていた。
奴――鬼火――とは、まだ戦ってはならない。
義憤に駆られて戦いを挑むことはできる。だが、それでは無駄死にだ。
結果として、雌鹿の横に恭平の死体が並ぶに過ぎなかっただろう。
「――ここは危険すぎる。」
そう認めざるを得なかった。
深く暗い森は、恭平の侵入を阻む強大な要塞だった。
徘徊する鬼火、岩陰に潜む大ナメクジ、ブッシュに潜む野獣たち。
どれも、現在の恭平の許容を超えている。
身を潜め、息を殺し、ときには全力で逃亡し、どうにか進んできた。
しかし、いずれ辿り着くのは、この雌鹿のような哀れな末路だろう。
早く、この森から抜け出さなくては――。
ただし、後戻りは、ない。
「……急ごう。」
雌鹿の亡骸を沼のほとりに残して、姿勢を低く恭平は歩き出した。
地を這う蜥蜴のように……。
-2-
前方に明かりが広がっていた。森林の出口に辿り着いたのだ。
ここから一歩出れば、そこは陽のあたる平原だろう。
そこまでおよそ1千メートル。
だが、そこまでの距離が今の恭平には無限にも思える。
「ちぃ、間に合うか……。」
背後へと感覚の糸を伸ばしながら、
枝葉で肌を傷つけることも厭わずに恭平は森の中を全力で駆けていた。
背後から、それは徐々に近づきつつあった。
その正体は芒洋としてしれないが、森林に潜む野獣の類ではあろう。
恭平に分かることは、そいつが怒りに我を忘れているということだけだ。
「……。」
恭平は全力で走るが、獣と人とでは覆せない差がある。
少しずつ、少しずつ、その距離は詰まってきている。
残り、5百メートル。
衝突は避け得ないだろう。
だがしかし、森の中で戦うことは避けたい。
いかな恭平といえど、この森林の中で地の利は相手にあると言えた。
身を隠す場所がなく、陽に照らされた平原で迎え撃つ。
あとは、なるようにしかならないだろう。
「……見えた。」
残り、1百メートル。
乱立する木々の密度が薄れ、平原の風がここまで流れ込んでいる。
背後から獣の唸り声。
風にのった恭平の匂いに反応したのであろう。
その声は、ほんのすぐ後ろから、もはや獣との間に距離はない。
「くっ……。」
その距離は零。
頭から飛び込むようにして、平原へと身体を投げ出した。
大地を転がるようにして反転、森から飛び出してくる野獣を迎え撃つ。
強制的に息を整えて、恭平は短剣を抜き放ち、森の闇を見据えた。
慣れない陽の光にたじろぐようにして、そいつは姿を現した。
哀しいまでに狂おしい、怒りが、恭平を貫いた――。
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05310227 | Day03 -冥府- |
これから進もうとしている森の手前に、
待ち構える人の気配を感じて、恭平は足を止めた。
一人、いや、二人。
二人の人間が闘志を剥き出しにして、誰かが通りがかるのを待っている。
冒険者だろうか。感覚の糸に触れた闘志は澱んでおらず、嫌な感じはない。
おそらくは自分の切磋琢磨のために、練習試合を挑もうとする輩だろう。
無視をして、迂回をしてもいいが、それではまた行程が遅れてしまう。
ここ以外から森へ侵入することもできなくはない。しかし、ルートの確保が問題なのだ。
それならば、少し付き合う方が時間のロスも少ないだろう。
「……やれやれだぜ。」
そう判断して、恭平は待ち受ける者たちの元へと歩み寄った。
あえて気配は断たず、正面から堂々と乗り込んでゆく。
はたして、そこには男と女が待ち受けていた。
前時代的な学ランを身にまとった恭平と同じぐらいの身長をした男。
そして、蠍の紋章のリングを身に付けた若い女。
その紋章には見覚えがある。
彼もかつて依頼を受けたことのある傭兵派遣会社の紋章だ。
関係者か。
「何処かで見た顔だな……。まあ、いい。」
何者がこの場にいようと、直接的な関係はない。
すでに、同業者が多く乗り込んできていることは確認済みだった。
「……死神!!」
逆に女の方は、恭平の顔を一目見て色めきたった。
傭兵家業の関係者であることは紋章から想像が出来る。
恭平の二つ名を知っていてもおかしくはない。
(……この島ではしがない男でしかないんだがな。)
自身の身体能力の低下を肌に感じる恭平は、その女の視線に自嘲する。
だがそのことを相手に教えるほど、恭平は親切ではない。
「……おい、練習試合がしたいんじゃなかったのか?」
言葉を失っている女に、興味なさそうに問いかける。
言外にやらないのなら通してくれないか、と言っているのだ。
「そ、そうよ。お相手してくださるかしら?
あなたが相手なら、相手に不足ありません。私は――。」
「名前に、興味はない。……さあ、始めよう。」
名乗ろうとする相手を制して、恭平は短剣を引き抜いた。
「ば、馬鹿にして……貴方が死神なら……貴方が死神なら
私はそれを統べる冥府の……! やるわよ、ジン!!」
憤慨した女は、東洋武術の構えをとり恭平を見据えた。
その背後でおどおどとしていた大男――ジンも、女の前に出てファイティングポーズをとる。
図体の割りに気の弱そうな男だが、女を守ろうという気概はあるらしい。
「……冥府の女王と、その番犬、か。思い上がるなよ、死の商人。――いくぞ。」
獲物を狙う鷹の眼で恭平は二人をみやり、殺気を飛ばした。
女の全身の産毛が総毛立ち、ジンの心臓が恐怖によって鷲掴みにされる。
生み出された一瞬の空白。
その隙に、恭平は姿勢を低く、放たれた矢のように飛び出している。
「女の方が出来るな……精神を鍛えろ、軟弱者」
そう断じて、動きの止まったジンの横を駆け去る。
女の立ち直りは早かった。
自分へと迫る恭平から視線を逸らさず、一挙一動に注目している。
(得意とするのは、後の先、か)
相手の一撃をかわし、反撃を加える。
おそらくはそういった戦法を得意とするのだろう。
下手な一撃を加えれば、手痛い反撃を加えてくるに違いない。
しかし、だからといって、それがどうしたというのか。
「……!」
女が息を呑んだ。
まるで口づけをせんがごとく、恭平の顔が女の正面にあった。
駆け寄る勢いそのままに、女へと肉薄したのだ。
加えられたのは、しかし、攻撃ではない。
「……動くな」
耳元でささやかれたのは凍りつくようなその言葉。
眼前にあった恭平の顔が立ち消え、大地を蹴る足が見えた。
視界から恭平の姿が消失する。
「……ど、どこへ!?」
女は狼狽する。
返答は右肩への痛烈な痛みだった。
「く……あ……。」
獣の牙のような短剣が、女の右肩に深々と突き刺さっている。
「クレア!」
その光景に、ジンが吼えた。
猪のごとく突進し、空中の恭平を薙ぎ払う。
「……ちっ」
その豪腕を受け流し、だがその衝撃を吸収しきれずに恭平は大地を転がった。
勢いそのままに、距離をとる。
ダン!! と音がして、先ほどまで恭平が転がっていた位置を、
ジンの蹴り脚が撃ち抜いていた。
地面に足形が残るほどの蹴り技、恐ろしい力だといえよう。
「油断、しました。」
その間に、女――クレアも立ち直っている。
与えた傷は精神的ダメージを狙ってのものだ。
最初の出血こそ派手だが、傷も深くないし血もすぐに止まる。
「今度はこちらから――。」
肩の傷もそのままに、クレアは恭平へと挑みかかる。
正面から視界を覆うように掌底を放つ。これはフェイントだ。
本命は蹴り技、死角から恭平の弁慶の泣き所を狙って蹴りを繰り出す。
その脚が逞しい恭平の腕に掴まれて止められた。
――かかった。
「掴まえましたよ、死神」
相手が自分を掴んでいる限り、その距離は零。
「ごめんなさい!」
あなたを殺してしまうかもしれない。
真の狙いは寸頸。零距離から相手の体内へと自身の気を浸透させる技だ。
下手をすれば、内臓器をミキサーにかけらたようにぐちゃぐちゃにされて、死に至ることもある。
だが、それしかない。
「……破ァ!! ……アッ?!」
裂帛を込めて流し込もうとした気が、凪がれた。
いつの間にか、押し合えてた腕も恭平よって掴まれている。
その箇所で気の流れが阻害され、せっかく練り上げた気も雲散霧消してしまっていた。
「教えてやる……。」
クレアの自由を奪ったまま、眼と鼻の先で死神が嗤う。
「冷静さを欠いたら負けだ。」
その言葉と同時に掴まれたクレアの腕が捻り上げられた。
そして、投げ飛ばされる。
「クレア!!」
あわや木に激突、という寸前でその身体をジンが抱きとめた。
さしたる外傷もなくクレアは立ち上がり、戦意に満ちた瞳で恭平を見た。
「いい眼だ。今日は、よく勉強して帰るんだな……」
その視線を真っ向から見つめ返し、恭平は少し楽しそうに口の端を吊り上げた。
そして放つ気の裂帛。
先ほど、クレアが零距離でやろうとしていたことを、長距離でやって見せたのだ。
全方位に迸った気合は颶風となってクレアとジンを撃つ。
再び恐怖がジンの心を襲った。
死神の鎌は、心の隙間へと忍び寄り、彼の戦意を刈り取ろうとする。
(……負ける、ものか。)
一瞬の攻防。
全身を汗だくにしながらも、ジンの心が折れることはなかった。
厚く重たい学ランの上着を脱ぎ捨てて、シャツ一枚となり、ファイティングポーズをとる。
その視線は先ほどに比べると、幾分か研ぎ澄まされて見える。
(……おもしろい。)
その内心は、成長する生徒を見守る教師のそれか。
恭平はどこか懐かしい思いにとらわれていた。
かつて先任として小隊を任されていたときの思い出か。
もう遠い昔のことだ。
そのときに、似ている。
「いきますよ、ジン!」
クレアとジンは、一緒に駆け出した。
息もつかさぬコンビネーションで、恭平へと襲い掛かる。
ジンはその体躯を活かして、恭平をその場に釘付けとした。
繰り出される拳の応酬。その一撃は重たく、恭平とて捌くことで手一杯となる。
その合間、合間に、切れ味鋭い蹴りを繰り放ってきた。
中段から下段へ、下段から上段へと、変則的に放たれる足技の華。
「……くっ」
ふいに放たれたジンのボディブローが恭平を捕らえた。
大柄な恭平の体躯が、宙へと浮かされる。
そこへ、首を刈り取るかのようなクレアの延髄蹴り。
二人の連撃の末に、恭平は再び大地を転がった。
効いている。
脳を揺らされ、視界がぐんにゃりと歪んで見えた。
しかし、ジンとクレアだけははっきりと像を結んでいる。
しかし――。
惜しむらくは二人の戦法だろう。
格闘は優しい。
確かに、素手で人を殺すことは可能だ。
恭平とてそれは経験がある。だが、武器を用いて為すことは、それよりも容易い。
相手が斧使いや剣使いであったならば、今の一撃で決着が付いていたはずだ。
だが、それでも、この二人は格闘家なのだ。
(……ずいぶんと、お優しい冥府の女王だな。)
その考えに苦笑する。
相手のことを考えているような状況下でもあるまい。
恭平は追い込まれている。
「……。」
無言のうちに立ち上がり、首を コキコキ と鳴らして二人を見やった。
追い詰められているのは恭平の方だが、緊張しているのは二人の方だろう。
恭平のことをどうやら、まだ過大評価しているらしい。
(……相手の戦力分析が甘いな。減点だ。)
いまだ手放さない短剣を持ち替えて、再び二人へと視線を送る。
「……さて、どうするか。」
二人に聞こえないよう呟いて、恭平は自問する。
十分に戦った。このまま逃げても良いのだが……。
どうやら、相手はまだまだやる気のようだ。
(……仕方ない)
最後まで付き合うとしよう。
「……いくぞ。」
宣言して、大地を蹴る。
狙いはクレアだ。クレアを狙えば、ジンの注意力は低下する。
相手の弱点は容赦なく突かねばならない。
わき腹を狙って、短剣を繰り出す。
慌ててクレアは繰り出された恭平の右腕を払った。
しかしその腕に短剣はない。
「……目で追うな。」
視覚はだまされやすい。。
一流の手品師は誰もが、観客の視覚を騙すのだ。
それも一人や二人ではなく、何百人もの観客を一度に騙してみせる。
それだけ視覚とは騙されやすいものなのだ。
恭平もそれに類した技術を使ったに過ぎない。
「な! あっ? くっ!!」
恭平の短剣は、消えては現れた。
確かにそこにあったはずなのに、そこにない。
繰り出された一撃に危険を感じ、意識がそちらへと移った瞬間にまったく別の箇所を切りつけられる。
クレアを救おうと恭平へと挑みかかるジンの眼にも、その短剣の軌道は読みきることは出来なかった。
「……眼で追うからそうなる。もっと感覚を鍛えろ、視覚が灯す信号は嘘っぱちだ。」
無茶を言うな。
クレアは歯噛みする。
いい様に扱われているという現実が、クレアのプライドを刺激していた。
どうにか、一矢報いたい。
「ジン!」
仲間の名前を呼ぶ。
ともに戦うことを誓い合った仲間だ。
それだけで彼は、彼女の意図を理解してくれた。
それは、時間稼ぎ。
クレアは大技を放とうとしている。
「ふん!!」
気合一閃。ジンは両拳を突き出した。
体重の乗った重たい一撃。
恭平はそれを交差させた両腕でガードする。
しかし、その一撃はその防御を貫き通し、恭平の肺を圧迫するだけの威力があった。
息が詰まる。
恭平の動きが止まった。
そして、それだけでクレアには十分なのだ。
「アベル先生!!」
クレアは地を蹴って、空へと舞い上がる。
水鳥のごとき体重を感じさせない動きだ。
空中でひらりと体を入れ替え、恭平の急所を狙う。
「力を貸してください!!」
蹴りを放つ。
その一撃は狙い違わず、恭平の水月に突き刺さった。
その動作は、まるでそこに収まることが運命であったかのように、
自然で無駄のない一撃だった。
「か、は……。」
ただでさえ搾り取られた空気を、さらに吐き出させられる。
瞬時的な酸欠で喉が詰まった。
しかし、楽しい。その攻防に恭平は楽しみを感じている。
戦いの中に生を見出す人種がいるが、恭平はまさにそうだった。
戦うことを宿命付けられた人間。
それが鳴尾恭平だ。
「……はは。」
知らずと笑みがこぼれる。
ただ、顔を上げるときには、いつもの仏頂面に戻っていた。
ポーカーフェイスはお手の物だ。意識をしているわけではないが。
「……なっ。」
自分の必殺技がたいして効いていないことにショックを受けたのだろう。
クレアが軽くよろめいた。
実際はそうでもないのだが、そう見せないだけの修羅場は潜ってきている。
はったりや虚勢も交渉術の大事な技能の一つだ。
恭平はクレアの顔をまじまじと見つめる。
「え、獲物の顔を楽しむ余裕があるのですね!
そんなにこの顔が気に入りましたか?死神さん!
苦痛で歪ませて……楽しむつもりなのですか!」
怯えたクレアは、半ば挑みかかるように恭平へと言葉をたたきつける。
(……面白い娘だ。)
恭平は心の中で笑みを漏らし。
「……乳臭いガキに興味はない。」
ポツリと、ひとりごちた。
「……!!」
繰り出されるクレアの拳。
唸りをあげて叩きつけられるそれを、ひょいとかわしてみせる。
言葉遣いの割りに、直情的な娘なのだと判断する。
「っ……私は、私は、ニーソン家の!!」
蹴りが飛んできた。
受け流して、背後にまわる。
次はジンの右拳だ。
受け止めて、逆間接を決めながら脚払いをかけ、大地に転がしてやる。
しかし、ジンもされるだけではなく、倒されながらこちらの軸足に蹴りを放ってきた。
かわしきれず、力を込めてその一撃に耐える。恭平は倒れない。
「ニーソン家の!!」
クレアは泣きそうな顔になりながら、恭平にふたたび挑みかかっていった。
蹴りをフェイントにした、右ストレート。
序盤の切れはどこへやら、その一撃は読みやすく分かりきったものだった。
「……そろそろ、終わりにしようか。」
その一撃をかわそうとした恭平の足が滑った。
いや、正確にはあがらなかったのだ。
先ほどの、ジンの蹴りが効いていた。
足が思いのほか上がらず、濡れ草に滑ってしまった。
(……ち、俺もどうかしてる。)
したたかに右頬を撃ち抜かれ、恭平は大地に倒れ付した。
残念ながら、もう余力は残っていない。
「……やるな。ニーソン家の娘。と、その番犬。」
ガバッ、と起き上がり、二人へと視線を動かす。
「もうやだ、おうちかえりたいよぅ」
仏頂面な恭平を前に、クレアはへたへたと座り込んでしまった。
まだ元気なジンは立ち上がり、油断なくファイティングポーズをとろうとしている。
「そして、俺もまだまだ未熟だった。二人とも、筋は悪くない。」
言って、パタパタと身体にまとわりついた泥を叩き落とす。
戦いを続けるつもりはなかった。
これ以上は、練習試合で終わらせる自信がない。
「……今日は、楽しめた。俺の負け、ということにしておこう。」
きびすを返す。
クレアはただ呆然とその背中を見送り、ジンも引きとめようとはしなかった。
「生きて……いるのですか? 私は……。
ねえ、ジン……?」
そんな少女の呟きが、遥か後方から小さく聞こえてきた。
恐怖を知れば、良い兵士になるだろう。
次に出会うときは、全力で戦えるように力を取り戻さなければならない。
恭平は深く静かに己への戒めをひとつ増やしたのだった。
05280152 | Day03 outer -宴楼- |
宵闇に包まれた森の中を歩く、
気配を殺して、夜に生きる獣たちを刺激しないように。
森の中の夜は深い。
星明りさえも届かない樹海には、ただ闇が広がり、
響くのは怪鳥のさえずりと、虫たちのささやき。
音を殺して歩く恭平のすぐ脇を、大蛇が通り過ぎた。
夜の森に争いはない。
昼に生きる者は眠り、夜に生きる者は安寧を求めて彷徨い歩く。
恭平もまた、夜に生きるものなのだろう。
「……ハァ」
声を漏らさぬように、恭平は息を漏らした。
植物人間に砕かれた右肩は、回復に向かっているものの、
いまだに鈍痛が続き、熱と気だるさを感じさせていた。
今夜中にこの森を越えて、次の森へと入らなければ、
予定よりもさらに遅れてしまうこととなる。
いつもならば、なんということもない距離のはずなのだが、
身体能力を奪われた今の恭平には、過酷な距離であるのは確かだった。
いかような技術によるものか、誰しもがその力をある一定の基準まで制限されている。
それはけして低い水準ではないのだが、その一線を越えていたものにはなんとも頼りない。
しかし、与えられた条件の内で依頼を果たすのが傭兵だ。
木の枝で作った添え木を肩に当て、痛みをこらえながら前進する。
程なく、闇の中がぼんやりと明るくなる一帯へと辿り着いた。
「ここは……。」
既視感。
その場所は赤に包まれている。
咲き誇るのは亜熱帯の赤い花々。
そこは昨夜見た光景と、あまりにも似すぎていた。
幻か――思い立ち花を手折ってみる。
鼻へ近づけると、ふんわりと甘い香りがした。
この世のものとも思えないが、実際にこの場所には在るらしい。
はたまた、臭いさえも惑わされているのか。
「また、ここか……。」
しばらく歩くとそこには空間が広がり、中央に大きなかがり火が見えた。
赤はより色濃くなり、極彩色の彩を添えている。
やはり、ここは昨夜の場所であるらしい。
昨夜よりも増えた人々が、かがり火の周囲で思い思いに談笑に興じている。
その中心にあるのは、やはり、昨夜見た子供だった。
「……宴会、か。」
やはり、昔のキャンプを思い出す。
賑やかであれば、寂しさも、恐怖も忘れられる。
「……賑やかなのは、いいことだ。」
フッ と微笑んで恭平はかがり火の向こうを見やった。
暖かな焔の明かりに、人々の影が映し出されている。
木々の作り出した闇のスクリーンにそれらの影は強く浮き出され、賑やかな影絵を映し出した。
そのスクリーンの中を、小さな影がちょこまかと動きまわるたびに
闇の中に人々の笑い声が木霊した。
小さな影は今、昨夜も見たハンチングの大柄な男の膝の上で、
足をぶらぶらとさせながら、液体の注がれた小杯をせがんでいるようだ。
その隣で、女がその所作をたしなめているようにも見える。
家族なのだろうか。
「……まあ、いい」
恭平には関係のない世界だ。
たんに彼は迷い込んでしまったに過ぎない。
それらの光景を眺めている間に、肩の痛みも幾分と和らいだ。
これなら先へと進めるだろう。
音を立てず、恭平はきびすを返す。
「まって!!」
そんな恭平を呼び止める声があった。
まだ声変わりもしていない子供の声だ。
影の中を抜け出して、子供が恭平の前までトコトコと走ってきた。
あどけない顔立ちの子供だ。
異郷じみた服装をしている。
「ティカだよ!」
それは、子供の名前なのだろうか。
自分のことを指差して、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「はじめまして?かな?」
ティカは恭平のことを見上げて、不思議そうに首をかしげた。
立ち去ろうとしていた恭平だが、元来、子供には弱い。
離れることも近づくこともできず、扱いに困りきって見下ろしている。
「ごめんね、ティカのともだちに似ているから、なんだかふしぎな感じがしたんだ」
多感な子供なのだろう、恭平の困惑に気づいてか ぺこり と頭を下げた。
そして、ゆっくりを手を差し伸べて、恭平の指を恐る恐る握る。
「……ねえ、あなたももっと火のそばへこない?」
ティカは言って、恭平の指を ギュッ と引っ張る。
為す術もなく、恭平はかがり火の近くへといざなわれた。
「待ってねえ、今、ジュースをつくるから!」
にこにこと笑って、ティカはココナッツへと向き直った。
指が解放されて、恭平は自由を取り戻す。
だが、既にかがり火の近く、ここから引き返すのはいささか無粋というものだろう。
焔の近く、恭平は所在なげに立ち尽くしている。
「ふふ、新しい方ね……」
恭平も今は影の世界の住人。
こちら側へ踏み込めば、当然、影となって現れていた人々の姿も露となる。
ティカと同じように笑みを浮かべて、仮面をつけた女と、ハンチング帽子の大男が恭平を見上げていた。
「私は、マツリ。よろしくね。」
バリ島風の衣装に身を包んだ女は言う。
「ロホだよ! よろしく!」
次いで、大男が言った。
二人はなみなみと注がれた酒盃を片手に、にこにこと恭平を見上げている。
名乗ったから、こちらも名乗れというのか。
言っているのだろう、実際。
「……恭平だ。邪魔をする。」
言って、恭平は軽く頭を下げた。
「お酒を飲むかい? おつまみもあるよ!」
ロホは嬉しそうに恭平へと酒盃を渡し、乱雑だが嫌味のない仕草で酒を注いだ。
その勢いに断る暇もなく、酒盃を手に恭平は再びひとりとなっている。
ティカも、マツリも、ロホからも、自分ではない誰かへの親しみを感じた。
他人の空似だろうか。
親しみの込められた視線など、慣れていない。
むず痒く、不快ですらあった。
だがしかし、同時に不思議な温もりを自分の内側に感じていることにも気づく。
他にも、自分へとそういった視線を向けるものがあった。
「キョウ子さん……?」
そこへ問いかける声。
また、他人の名前だ。そんあにも似ているのだろうか。
以前も、緑髪の妖精に間違えられた覚えがある。
「いや……違う?」
正面にまわって、恭平の顔を見た女が言った。
その顔に、こちらは見覚えがある。
昨夜、この場所で見た。水色の髪の女だ。
「失礼しました、人違いのようです……。」
納得しきれないといった面持ちで、女は謝罪の言葉を述べた。
そのキョウ子とかいう女に、恭平はよほど似ているらしい。
「……私と同業の方、ですね。」
この女も傭兵なのだろう。
そのことは、出会った瞬間から分かっていた。
傭兵同士は惹かれあう。
そういうものだ。
「同じ、匂いがします――。」
女はそう言い残し、一礼してその場を立ち去っていった。
その歩き方には油断も隙もない。
さぞ名の知れた傭兵だったのだろう。
もし、そうであれば、知っているような気がするのも当然かもしれない。
戦場でたまたま出会っていなかっただけのことだ。
覚えておこう、恭平は思う。
「あ!!」
女傭兵の立ち去った方向をじっと見据え、物思いにふけっていた恭平を
ティカの叫び声が現実へと引き戻した。
「お酒!!」
ココナッツジュースを手にしたティカの頬が小さく膨れている。
機嫌を損ねてしまったのか。
「……やれやれだ」
今日はいったいどういう日なのだろうか、恭平は嘆息した。
宴の夜は更けていく。
気配を殺して、夜に生きる獣たちを刺激しないように。
森の中の夜は深い。
星明りさえも届かない樹海には、ただ闇が広がり、
響くのは怪鳥のさえずりと、虫たちのささやき。
音を殺して歩く恭平のすぐ脇を、大蛇が通り過ぎた。
夜の森に争いはない。
昼に生きる者は眠り、夜に生きる者は安寧を求めて彷徨い歩く。
恭平もまた、夜に生きるものなのだろう。
「……ハァ」
声を漏らさぬように、恭平は息を漏らした。
植物人間に砕かれた右肩は、回復に向かっているものの、
いまだに鈍痛が続き、熱と気だるさを感じさせていた。
今夜中にこの森を越えて、次の森へと入らなければ、
予定よりもさらに遅れてしまうこととなる。
いつもならば、なんということもない距離のはずなのだが、
身体能力を奪われた今の恭平には、過酷な距離であるのは確かだった。
いかような技術によるものか、誰しもがその力をある一定の基準まで制限されている。
それはけして低い水準ではないのだが、その一線を越えていたものにはなんとも頼りない。
しかし、与えられた条件の内で依頼を果たすのが傭兵だ。
木の枝で作った添え木を肩に当て、痛みをこらえながら前進する。
程なく、闇の中がぼんやりと明るくなる一帯へと辿り着いた。
「ここは……。」
既視感。
その場所は赤に包まれている。
咲き誇るのは亜熱帯の赤い花々。
そこは昨夜見た光景と、あまりにも似すぎていた。
幻か――思い立ち花を手折ってみる。
鼻へ近づけると、ふんわりと甘い香りがした。
この世のものとも思えないが、実際にこの場所には在るらしい。
はたまた、臭いさえも惑わされているのか。
「また、ここか……。」
しばらく歩くとそこには空間が広がり、中央に大きなかがり火が見えた。
赤はより色濃くなり、極彩色の彩を添えている。
やはり、ここは昨夜の場所であるらしい。
昨夜よりも増えた人々が、かがり火の周囲で思い思いに談笑に興じている。
その中心にあるのは、やはり、昨夜見た子供だった。
「……宴会、か。」
やはり、昔のキャンプを思い出す。
賑やかであれば、寂しさも、恐怖も忘れられる。
「……賑やかなのは、いいことだ。」
フッ と微笑んで恭平はかがり火の向こうを見やった。
暖かな焔の明かりに、人々の影が映し出されている。
木々の作り出した闇のスクリーンにそれらの影は強く浮き出され、賑やかな影絵を映し出した。
そのスクリーンの中を、小さな影がちょこまかと動きまわるたびに
闇の中に人々の笑い声が木霊した。
小さな影は今、昨夜も見たハンチングの大柄な男の膝の上で、
足をぶらぶらとさせながら、液体の注がれた小杯をせがんでいるようだ。
その隣で、女がその所作をたしなめているようにも見える。
家族なのだろうか。
「……まあ、いい」
恭平には関係のない世界だ。
たんに彼は迷い込んでしまったに過ぎない。
それらの光景を眺めている間に、肩の痛みも幾分と和らいだ。
これなら先へと進めるだろう。
音を立てず、恭平はきびすを返す。
「まって!!」
そんな恭平を呼び止める声があった。
まだ声変わりもしていない子供の声だ。
影の中を抜け出して、子供が恭平の前までトコトコと走ってきた。
あどけない顔立ちの子供だ。
異郷じみた服装をしている。
「ティカだよ!」
それは、子供の名前なのだろうか。
自分のことを指差して、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「はじめまして?かな?」
ティカは恭平のことを見上げて、不思議そうに首をかしげた。
立ち去ろうとしていた恭平だが、元来、子供には弱い。
離れることも近づくこともできず、扱いに困りきって見下ろしている。
「ごめんね、ティカのともだちに似ているから、なんだかふしぎな感じがしたんだ」
多感な子供なのだろう、恭平の困惑に気づいてか ぺこり と頭を下げた。
そして、ゆっくりを手を差し伸べて、恭平の指を恐る恐る握る。
「……ねえ、あなたももっと火のそばへこない?」
ティカは言って、恭平の指を ギュッ と引っ張る。
為す術もなく、恭平はかがり火の近くへといざなわれた。
「待ってねえ、今、ジュースをつくるから!」
にこにこと笑って、ティカはココナッツへと向き直った。
指が解放されて、恭平は自由を取り戻す。
だが、既にかがり火の近く、ここから引き返すのはいささか無粋というものだろう。
焔の近く、恭平は所在なげに立ち尽くしている。
「ふふ、新しい方ね……」
恭平も今は影の世界の住人。
こちら側へ踏み込めば、当然、影となって現れていた人々の姿も露となる。
ティカと同じように笑みを浮かべて、仮面をつけた女と、ハンチング帽子の大男が恭平を見上げていた。
「私は、マツリ。よろしくね。」
バリ島風の衣装に身を包んだ女は言う。
「ロホだよ! よろしく!」
次いで、大男が言った。
二人はなみなみと注がれた酒盃を片手に、にこにこと恭平を見上げている。
名乗ったから、こちらも名乗れというのか。
言っているのだろう、実際。
「……恭平だ。邪魔をする。」
言って、恭平は軽く頭を下げた。
「お酒を飲むかい? おつまみもあるよ!」
ロホは嬉しそうに恭平へと酒盃を渡し、乱雑だが嫌味のない仕草で酒を注いだ。
その勢いに断る暇もなく、酒盃を手に恭平は再びひとりとなっている。
ティカも、マツリも、ロホからも、自分ではない誰かへの親しみを感じた。
他人の空似だろうか。
親しみの込められた視線など、慣れていない。
むず痒く、不快ですらあった。
だがしかし、同時に不思議な温もりを自分の内側に感じていることにも気づく。
他にも、自分へとそういった視線を向けるものがあった。
「キョウ子さん……?」
そこへ問いかける声。
また、他人の名前だ。そんあにも似ているのだろうか。
以前も、緑髪の妖精に間違えられた覚えがある。
「いや……違う?」
正面にまわって、恭平の顔を見た女が言った。
その顔に、こちらは見覚えがある。
昨夜、この場所で見た。水色の髪の女だ。
「失礼しました、人違いのようです……。」
納得しきれないといった面持ちで、女は謝罪の言葉を述べた。
そのキョウ子とかいう女に、恭平はよほど似ているらしい。
「……私と同業の方、ですね。」
この女も傭兵なのだろう。
そのことは、出会った瞬間から分かっていた。
傭兵同士は惹かれあう。
そういうものだ。
「同じ、匂いがします――。」
女はそう言い残し、一礼してその場を立ち去っていった。
その歩き方には油断も隙もない。
さぞ名の知れた傭兵だったのだろう。
もし、そうであれば、知っているような気がするのも当然かもしれない。
戦場でたまたま出会っていなかっただけのことだ。
覚えておこう、恭平は思う。
「あ!!」
女傭兵の立ち去った方向をじっと見据え、物思いにふけっていた恭平を
ティカの叫び声が現実へと引き戻した。
「お酒!!」
ココナッツジュースを手にしたティカの頬が小さく膨れている。
機嫌を損ねてしまったのか。
「……やれやれだ」
今日はいったいどういう日なのだろうか、恭平は嘆息した。
宴の夜は更けていく。
05240215 | Day02 outer -篝火- |
林の中を駆けるも一興。
ぬかるんだ足元、道を塞ぐ木の枝、肌を裂く草葉の刃。
鉈の重さを持つナイフで、それらを薙ぎ払い、突き進む。
すると、道なきところに新たな道ができた。
踏みしめられた大地は、次の瞬間には新しい道となる。
それは、獣道のようなもの。
数多の獣たちが踏みしめて作るのが獣道ならば、
恭平が進む場所にできる道はなんと呼べばよいのだろう。
人間も、また、野獣。
ならば、それもまた獣道で正しいのか。
ただ、多くの人間たちが、
かつて己たちも野獣であったことを忘れてしまっただけだ。
長く苦しい戦いの果てに、恭平は失われた獣性をも取り戻している。
森の臭いは心地いい。
そこは恭平にとって、揺り篭のように心安らぐ場所であった。
手にした牙を巧みに操り、己の道を切り開いてゆく。
視界は悪い。
遺跡にも、夜が訪れていた。
されど、恭平の歩みに衰えは見られない。
彼は夜歩く者。
闇を恐れ足を竦めるような傭兵であったなら、
彼は、今、ここに存在することを許されていなかっただろう。
天に瞬くヒカリゴケの薄明かりを頼りに、不安定な足場を蹴って恭平は進む。
前へ――。
遺跡の闇が深いのであれば、そのさらに懐へと飛び込まなければならない。
恭平は遺跡を知らないに過ぎる。
彼は、遺跡を知らなくてはならない。
そうでなければ、この戦いを勝ち抜くことも難しいだろう。
情報の収集を優先させる。
耳を発達させたウサギにも似た臆病さが、彼を今日まで生きながらえさせてきたのだ。
先を行く冒険者の痕跡を見つけ、最適なルートを選択する。
または、すれ違う冒険者の会話を傍聴し、遺跡に関する情報を集めた。
とある冒険者は言った。
噂ではこの遺跡には莫大な財宝が眠っているらしい。
誰よりも先にそこへと辿り着いたなら、望むものが手に入るそうだ。
その冒険者は、それを狙ってこの遺跡へと辿り着いたのか。
(……財宝? くだらないな)
望むべきものもない恭平には、関係のない話だ。
彼の任務はゲリラの殲滅。
それ以上でもそれ以下でもないのだから。
(もしも、俺が手に入れたならば、何処かの海に捨ててしまおう。)
過ぎた力は、人を狂わせる。
自然の法則に逆らうことは身の破滅を招くのだと、経験から学んでいた。
財宝がどのようなものかは知らないが、ろくなものではあるまい。
かつて、与えられた力におぼれ、身を滅ぼしていった者たちがいた。
恭平もいずれはその末席に名前を連ねるのだろう。
だが、そうなるのは、彼だけでよい。
いつの頃からか、恭平にはそういった信念が芽生えていた。
夜の闇の中に思考は冴え、ここに恭平の目的がひとつ定められた。
遺跡に眠る宝物の破壊。
それは、けして優先順位の高い目的ではない。
だがしかし、そう思いながらも、避け得ぬ運命を恭平は感じていた。
遺跡の中に潜る限り、その宝物からは逃れられないのかも知れない。
(……道を間違えたか)
嫌な予感に、思索を中断して、周囲を見渡した。
どうも、予測とは違う場所へと、向かっているようだ。
複雑な遺跡内の地形が、恭平の感覚を少しずつ歪めていたらしい。
いつ頃からか、乱立する木立の中に、
紅よりも赤い、煌々とした花々が、花を咲かせているようになっていた。
(……しかし、美しい場所だ)
恭平にも、無駄を愛する心は存在する。
無害であるのならば、全ては美しいに越したことはない。
自らの手を介さない美は、彼にとっても好ましいものだった。
自らが労力を裂いてまで、手に入れようとは思わないものの、
速度を緩めるでもなく、花々の饗宴を楽しみながら、闇の中を駆けていく。
(……灯り?)
次第に花の密度が増していく折、恭平は先に揺らめく焔を見つけた。
ゆらゆらとゆらめく――赤。
闇に映え、木々に映るかがり火は、まるで花のように見えた。
そこに、人の気配がする。
歩む速度を緩め、風に揺れる木々のざわめきよりも静かに足を進める。
注意をして進まなければならない。
必要以上に警戒することもないが、何者かは推し量らなければならない。
損耗は避けたいのだから。
響くのは コンコン という乾いた音。
近づくにつれて、木々の香りの中に、ココナツの香りや花の香りが混じった。
どうやら、かがり火を焚いている人物が、食事の用意でもしているのだろう。
(……野営か)
このような場所にいるものだ、冒険者に違いあるまい。
時は夜更けも夜更け。
闇でさえも眠るのではないかと思えるかのような時間だ。
疲れた冒険者が、休みをとるべく火をおこしてもおかしくはない。
(……誰か、くる)
ガサガサ、と恭平とは反対側の林を揺らして、二つの影が焔に浮き出された。
よくよく見れば、かがり火の周囲に集まるものは一人や二人ではないらしい。
冒険者の集団なのか。
しかし、そこには統率された団のような結束は感じられない。
印象としては、酒場に集まる人々にも似た雑多な感があった。
現れた影は男と女。
ハンチングのような帽子を被った大男と、風に揺らめく布を身にまとったしなやかな女だ。
女のしなやかな足の運びと、対照的な、ここまで足音の聞こえそうな男の歩み。
声は聞き取れないが、唇の動きを読むに、酒をもってきたと言っているらしい。
(……宴会か)
かつてのキャンプを思い出す。
仕事の終わった後は、恐怖を忘れるために多くの傭兵が酒におぼれたものだ。
恭平自身は必要としていなかったが、友人に誘われて付き合ったことが幾度となくあった。
そのおかげか、彼もはやうわばみと称される程、酒には強くなっている。
男と女は、かがり火の近くに寄り、腰を落ち着かせたようだ。
その近くにまで、ひときわ小さな影が寄り添い、嬉しそうに手足を動かしている。
(……子供?)
大きなリングのような装飾品が、火の光を受けて鈍く輝いている。
背丈からは背の低い女とも思われたが、その動きは子供のそれ、だ。
「……アハハハハハ!!」
大柄な男の盛大な笑い声が、闇を切り裂いて恭平のもとへまで届いた。
おおげさな仕草で、腹を抱えてみせた後、子供の頭をくしゃくしゃと撫で付ける。
その横ではやはり、女がたおやかに手を口元にあてて笑っていた。
その笑い声を目印にか、方々の林を揺らして、新たな影たちが姿を現した。
(……あいつは?)
その中に、その女はいた。
髪を片側だけ長く伸ばした、水色の髪をした女傭兵。
名前は知らない。
だが、その澄んだ横顔を、恭平は知っているような気がする。
ひどくモヤモヤとした気持ちを抱えて、恭平はその場を後にした。
何者かの視線を、その背中に感じながら。
ぬかるんだ足元、道を塞ぐ木の枝、肌を裂く草葉の刃。
鉈の重さを持つナイフで、それらを薙ぎ払い、突き進む。
すると、道なきところに新たな道ができた。
踏みしめられた大地は、次の瞬間には新しい道となる。
それは、獣道のようなもの。
数多の獣たちが踏みしめて作るのが獣道ならば、
恭平が進む場所にできる道はなんと呼べばよいのだろう。
人間も、また、野獣。
ならば、それもまた獣道で正しいのか。
ただ、多くの人間たちが、
かつて己たちも野獣であったことを忘れてしまっただけだ。
長く苦しい戦いの果てに、恭平は失われた獣性をも取り戻している。
森の臭いは心地いい。
そこは恭平にとって、揺り篭のように心安らぐ場所であった。
手にした牙を巧みに操り、己の道を切り開いてゆく。
視界は悪い。
遺跡にも、夜が訪れていた。
されど、恭平の歩みに衰えは見られない。
彼は夜歩く者。
闇を恐れ足を竦めるような傭兵であったなら、
彼は、今、ここに存在することを許されていなかっただろう。
天に瞬くヒカリゴケの薄明かりを頼りに、不安定な足場を蹴って恭平は進む。
前へ――。
遺跡の闇が深いのであれば、そのさらに懐へと飛び込まなければならない。
恭平は遺跡を知らないに過ぎる。
彼は、遺跡を知らなくてはならない。
そうでなければ、この戦いを勝ち抜くことも難しいだろう。
情報の収集を優先させる。
耳を発達させたウサギにも似た臆病さが、彼を今日まで生きながらえさせてきたのだ。
先を行く冒険者の痕跡を見つけ、最適なルートを選択する。
または、すれ違う冒険者の会話を傍聴し、遺跡に関する情報を集めた。
とある冒険者は言った。
噂ではこの遺跡には莫大な財宝が眠っているらしい。
誰よりも先にそこへと辿り着いたなら、望むものが手に入るそうだ。
その冒険者は、それを狙ってこの遺跡へと辿り着いたのか。
(……財宝? くだらないな)
望むべきものもない恭平には、関係のない話だ。
彼の任務はゲリラの殲滅。
それ以上でもそれ以下でもないのだから。
(もしも、俺が手に入れたならば、何処かの海に捨ててしまおう。)
過ぎた力は、人を狂わせる。
自然の法則に逆らうことは身の破滅を招くのだと、経験から学んでいた。
財宝がどのようなものかは知らないが、ろくなものではあるまい。
かつて、与えられた力におぼれ、身を滅ぼしていった者たちがいた。
恭平もいずれはその末席に名前を連ねるのだろう。
だが、そうなるのは、彼だけでよい。
いつの頃からか、恭平にはそういった信念が芽生えていた。
夜の闇の中に思考は冴え、ここに恭平の目的がひとつ定められた。
遺跡に眠る宝物の破壊。
それは、けして優先順位の高い目的ではない。
だがしかし、そう思いながらも、避け得ぬ運命を恭平は感じていた。
遺跡の中に潜る限り、その宝物からは逃れられないのかも知れない。
(……道を間違えたか)
嫌な予感に、思索を中断して、周囲を見渡した。
どうも、予測とは違う場所へと、向かっているようだ。
複雑な遺跡内の地形が、恭平の感覚を少しずつ歪めていたらしい。
いつ頃からか、乱立する木立の中に、
紅よりも赤い、煌々とした花々が、花を咲かせているようになっていた。
(……しかし、美しい場所だ)
恭平にも、無駄を愛する心は存在する。
無害であるのならば、全ては美しいに越したことはない。
自らの手を介さない美は、彼にとっても好ましいものだった。
自らが労力を裂いてまで、手に入れようとは思わないものの、
速度を緩めるでもなく、花々の饗宴を楽しみながら、闇の中を駆けていく。
(……灯り?)
次第に花の密度が増していく折、恭平は先に揺らめく焔を見つけた。
ゆらゆらとゆらめく――赤。
闇に映え、木々に映るかがり火は、まるで花のように見えた。
そこに、人の気配がする。
歩む速度を緩め、風に揺れる木々のざわめきよりも静かに足を進める。
注意をして進まなければならない。
必要以上に警戒することもないが、何者かは推し量らなければならない。
損耗は避けたいのだから。
響くのは コンコン という乾いた音。
近づくにつれて、木々の香りの中に、ココナツの香りや花の香りが混じった。
どうやら、かがり火を焚いている人物が、食事の用意でもしているのだろう。
(……野営か)
このような場所にいるものだ、冒険者に違いあるまい。
時は夜更けも夜更け。
闇でさえも眠るのではないかと思えるかのような時間だ。
疲れた冒険者が、休みをとるべく火をおこしてもおかしくはない。
(……誰か、くる)
ガサガサ、と恭平とは反対側の林を揺らして、二つの影が焔に浮き出された。
よくよく見れば、かがり火の周囲に集まるものは一人や二人ではないらしい。
冒険者の集団なのか。
しかし、そこには統率された団のような結束は感じられない。
印象としては、酒場に集まる人々にも似た雑多な感があった。
現れた影は男と女。
ハンチングのような帽子を被った大男と、風に揺らめく布を身にまとったしなやかな女だ。
女のしなやかな足の運びと、対照的な、ここまで足音の聞こえそうな男の歩み。
声は聞き取れないが、唇の動きを読むに、酒をもってきたと言っているらしい。
(……宴会か)
かつてのキャンプを思い出す。
仕事の終わった後は、恐怖を忘れるために多くの傭兵が酒におぼれたものだ。
恭平自身は必要としていなかったが、友人に誘われて付き合ったことが幾度となくあった。
そのおかげか、彼もはやうわばみと称される程、酒には強くなっている。
男と女は、かがり火の近くに寄り、腰を落ち着かせたようだ。
その近くにまで、ひときわ小さな影が寄り添い、嬉しそうに手足を動かしている。
(……子供?)
大きなリングのような装飾品が、火の光を受けて鈍く輝いている。
背丈からは背の低い女とも思われたが、その動きは子供のそれ、だ。
「……アハハハハハ!!」
大柄な男の盛大な笑い声が、闇を切り裂いて恭平のもとへまで届いた。
おおげさな仕草で、腹を抱えてみせた後、子供の頭をくしゃくしゃと撫で付ける。
その横ではやはり、女がたおやかに手を口元にあてて笑っていた。
その笑い声を目印にか、方々の林を揺らして、新たな影たちが姿を現した。
(……あいつは?)
その中に、その女はいた。
髪を片側だけ長く伸ばした、水色の髪をした女傭兵。
名前は知らない。
だが、その澄んだ横顔を、恭平は知っているような気がする。
ひどくモヤモヤとした気持ちを抱えて、恭平はその場を後にした。
何者かの視線を、その背中に感じながら。
05210116 | Day03 -草人- |
-0-
行く道は二手に分かれていた。
味気ないパンくずを頬張りながら、恭平はどちらに進むべきかを考える。
二匹の黒猫――そして冒険者らしき一匹の黒猫――との戦いは、
予想以上に激しくなり、恭平に大きな疲労を残していた。
この島にたどり着いてからというもの、どうも身体が重たく感じられる。
事実、重病に冒されているのかと思いたくなるほど、身体のキレが鈍かった。
その為、戦いではかなりの傷を負ってしまったのだが、
気が付けば身体の傷は治り、その痕跡は衣類にこびりついた血痕だけとなっている。
不思議なことと言えば、もうひとつ――。
現在までに探索した内容などを記そうと引っ張り出した地図には、
いつの間にか新しいエリアが描き足されていた。
任務とともに送られてきたときには、ほとんど白紙だったにも関わらず、だ。
どうやら、遺跡の中にいる誰かが、新しい場所に到達した時点で、
周辺の地形が自動的に地図上へと浮き上がる仕組みらしい。
それがどのような技術によるものかは分からないが、
苦もなく情報が手に入るというのは歓迎すべきことだろう。
そして、地図上には行き先の状況と、その周辺で活動をしている冒険者の名前が記されている。
現在のエリアには「多」の文字が。一定人数を超えれば、正確には数えないということか。
しかし、その地図のエリア部に触れることによって、
どのような冒険者がそこに居て、何を経験したのか、それさえも知ることができた。
つまり――。
「……俺の居場所も、実力も知られている……ということ、か」
しっかりと租借したパンくずを飲み込んで、恭平はひとりごちた。
隠密行動を身上とする恭平にとってこの地図は、便利な道具であるとともに、忌々しい代物でもあるようだ。
なおさら、周囲に気を配って行動をしなければならない。
探索行は長い時間を必要とするだろう。
だからこそ、遺跡内での無駄な損耗は避けたかった。
「さて……」
それはさておいて、今の問題はどちらへと進むか、だ。
大広間の両端に開けた回廊の先は眩い明かりに包まれており、
その先が遺跡の外へと続いているかのような錯覚を感じさせる。
実際には、平原へと続いているらしい。
これもどのような技術によるものか、遺跡の中には大自然があった。
黒猫たち動物も、そうした遺跡の不思議によって生きながらえてきたのだろう。
さらに言うならば、遺跡の中だからこその進化を遂げたものもいるかもしれない。
まだ見ぬ怪異を思い浮かべ、恭平は心の帯を引き締めた。
彼は今、戦場にいるのだ。
「あちらは右足の方向か……なら、こっちだな」
地図を見ながら、行く先がどこへ続くのかを確認する。
昨日のうちに大勢の冒険者が先へと進んだらしく、周囲のエリアはほぼ確認ができた。
それによると片側の道は、既に取得したもうひとつの魔方陣へと続いているだけだ。
それならば、新しい方向へと進むべきだろう。
「さあ……状況開始、だ」
薄い笑みを浮かべて恭平は立ち上がり、慎重な足取りで大広間を後にした。
-1-
恭平の歩みは速い。
体重を感じさせない足取りで平原を踏破していく。
その歩法はかつて密林で身につけたものだ。
たとえ敷き詰められた枯葉のうえを歩いたとして、足音ひとつたてないだろう。
そういう歩き方をしている。
音をたてず、敵から自分の居場所を察知されることもない。
それは密林に暮らす獣たちから、恭平が習い取った技術だった。
魔方陣エリアを出立して数時間。
すでに2エリアを行き過ごし、3エリア目の平原に差し掛かろうとしている。
この辺りには冒険者達も多い。
「……ちっ」
新しい平原へと繋がる地点を前にして、恭平は足を止めた。
前方で幾つもの人影がたむろしている。
友好的かどうかも分からない相手と不用意に接触をするべきではなかった。
「もさもさ」
「……もっさぁ?」
緑色の肌をした彼らもはたして冒険者なのであろうか。
不思議な言語で何事かを相談しているようだ。
近くの草陰に身を潜め、恭平はその動向をさぐる。
「もっさ、もっさ!」
「もっさぁ!!」
話し合いも佳境なのか、聞き耳をたてずとも男たちの話し声は耳に届いてきた。
無個性な野太い声だ。身振り手振りを交えながら、何事かを言い争っている。
「もさ、もさ!」
「もさ……」
「さもさー……」
ひときわ大柄な男の一声で場が沈黙した。
どうやら、そいつがリーダー格らしい。
「もさ。もさもさ」
リーダーの鶴の一声で、やたらとマッチョイズムな男たちの話し合いは終わったようだ。
お互い頷きあうと、示し合わせたようにそれぞれ違う方向へと駆け出していく。
遺跡外の市場に売られていた「美味しい草」にも似た緑色の髪の毛が、
走ることによって生じる風圧に揺れていた。
「……データにはない、な」
話を聞きながら地図を広げ、冒険者たちを洗ってみたがそれらしき人物は居なかった。
緑色の肌の冒険者は数名見当たったが、外見は似ても似つかない。
そもそも、男たちはどれも似たような外見をしていなかったか。
もしかすると、
「奴らも、遺跡の守護者だったか……」
接触を避けて正解だったようだ。
少なくとも無駄な争い、無駄な損耗は避けることができた。
「……行こう」
慎重に草陰から身を躍らせて、恭平は静かに走り出す。
それは、先ほどの緑色をした男が一人、駆け出していった方向だ。
こちらがその後を追う形になるが、どこで出くわすかは分からない。
道は隣の平原エリアへと続いている。
「……用心が必要だな」
腰に下げたナイフを確認して、恭平は新たなエリアへと足を踏み入れた。
-2-
草原に吹く穏やかな風には、潰れた草の汁にも似た臭いが混じっている。
強烈な青臭さに恭平は一瞬顔をしかめ、すぐに平静を取り戻した。
臭いの元は、草原の至るところに散らばった緑色の肉片だ。
否、肉に見えるそれは、よくよく見れば植物の組織体であるらしい。
それが、草原の其処此処にベッタリとした液体を撒き散らしながら落ちている。
どれも落とされてから半日以上が経過していた。
「血痕……」
緑片の傍らに残されたそれは、血の赤。
遺跡へと侵入した冒険者が傷ついた痕跡だろう。
だとすれば、ここでは戦闘が起こっていたということか。
「いったい、何と戦えば……こんなことになるんだ?」
植物に襲われたとでもいうのだろうか。
恭平の常識には人間を襲う植物など存在しない。
しかし、この遺跡の中ならば、それも在り得るのか。
「決め付けるのは危険だな……」
恭平は、既に己の知識だけで測ることのできない世界へと足を踏み入れている。
それに納得しているわけではないが、直感がそう告げていた。
安易に判断すれば、命取りになるだろう。
「……毒は、ないか」
ペロリ と指先に付けた緑色の液体を舌で舐めとり、じっくりと味わう。
それはキャベツにも似た味わい。
毒がないのであれば、料理すれば意外といける口かもしれない。
「好き好んで食べたいものでもないが、な」
そこまで考えて、恭平は苦笑した。
食料に困れば、得体の知れないものを口にしなければならないこともあるだろう。
だが、今はその時ではない。
「……ん?」
無造作に手をズボンに擦り付けて、恭平がその場を離れようとしたとき、
風に混じる草の臭いが強まった。
「ちっ……現物の御登場か……」
眼光鋭く、ナイフを抜き放つ。
臭いは近い――そして、近づいてくる気配は二つ。
戦士の勘は、警鐘を鳴らし続けている。
行く道は二手に分かれていた。
味気ないパンくずを頬張りながら、恭平はどちらに進むべきかを考える。
二匹の黒猫――そして冒険者らしき一匹の黒猫――との戦いは、
予想以上に激しくなり、恭平に大きな疲労を残していた。
この島にたどり着いてからというもの、どうも身体が重たく感じられる。
事実、重病に冒されているのかと思いたくなるほど、身体のキレが鈍かった。
その為、戦いではかなりの傷を負ってしまったのだが、
気が付けば身体の傷は治り、その痕跡は衣類にこびりついた血痕だけとなっている。
不思議なことと言えば、もうひとつ――。
現在までに探索した内容などを記そうと引っ張り出した地図には、
いつの間にか新しいエリアが描き足されていた。
任務とともに送られてきたときには、ほとんど白紙だったにも関わらず、だ。
どうやら、遺跡の中にいる誰かが、新しい場所に到達した時点で、
周辺の地形が自動的に地図上へと浮き上がる仕組みらしい。
それがどのような技術によるものかは分からないが、
苦もなく情報が手に入るというのは歓迎すべきことだろう。
そして、地図上には行き先の状況と、その周辺で活動をしている冒険者の名前が記されている。
現在のエリアには「多」の文字が。一定人数を超えれば、正確には数えないということか。
しかし、その地図のエリア部に触れることによって、
どのような冒険者がそこに居て、何を経験したのか、それさえも知ることができた。
つまり――。
「……俺の居場所も、実力も知られている……ということ、か」
しっかりと租借したパンくずを飲み込んで、恭平はひとりごちた。
隠密行動を身上とする恭平にとってこの地図は、便利な道具であるとともに、忌々しい代物でもあるようだ。
なおさら、周囲に気を配って行動をしなければならない。
探索行は長い時間を必要とするだろう。
だからこそ、遺跡内での無駄な損耗は避けたかった。
「さて……」
それはさておいて、今の問題はどちらへと進むか、だ。
大広間の両端に開けた回廊の先は眩い明かりに包まれており、
その先が遺跡の外へと続いているかのような錯覚を感じさせる。
実際には、平原へと続いているらしい。
これもどのような技術によるものか、遺跡の中には大自然があった。
黒猫たち動物も、そうした遺跡の不思議によって生きながらえてきたのだろう。
さらに言うならば、遺跡の中だからこその進化を遂げたものもいるかもしれない。
まだ見ぬ怪異を思い浮かべ、恭平は心の帯を引き締めた。
彼は今、戦場にいるのだ。
「あちらは右足の方向か……なら、こっちだな」
地図を見ながら、行く先がどこへ続くのかを確認する。
昨日のうちに大勢の冒険者が先へと進んだらしく、周囲のエリアはほぼ確認ができた。
それによると片側の道は、既に取得したもうひとつの魔方陣へと続いているだけだ。
それならば、新しい方向へと進むべきだろう。
「さあ……状況開始、だ」
薄い笑みを浮かべて恭平は立ち上がり、慎重な足取りで大広間を後にした。
-1-
恭平の歩みは速い。
体重を感じさせない足取りで平原を踏破していく。
その歩法はかつて密林で身につけたものだ。
たとえ敷き詰められた枯葉のうえを歩いたとして、足音ひとつたてないだろう。
そういう歩き方をしている。
音をたてず、敵から自分の居場所を察知されることもない。
それは密林に暮らす獣たちから、恭平が習い取った技術だった。
魔方陣エリアを出立して数時間。
すでに2エリアを行き過ごし、3エリア目の平原に差し掛かろうとしている。
この辺りには冒険者達も多い。
「……ちっ」
新しい平原へと繋がる地点を前にして、恭平は足を止めた。
前方で幾つもの人影がたむろしている。
友好的かどうかも分からない相手と不用意に接触をするべきではなかった。
「もさもさ」
「……もっさぁ?」
緑色の肌をした彼らもはたして冒険者なのであろうか。
不思議な言語で何事かを相談しているようだ。
近くの草陰に身を潜め、恭平はその動向をさぐる。
「もっさ、もっさ!」
「もっさぁ!!」
話し合いも佳境なのか、聞き耳をたてずとも男たちの話し声は耳に届いてきた。
無個性な野太い声だ。身振り手振りを交えながら、何事かを言い争っている。
「もさ、もさ!」
「もさ……」
「さもさー……」
ひときわ大柄な男の一声で場が沈黙した。
どうやら、そいつがリーダー格らしい。
「もさ。もさもさ」
リーダーの鶴の一声で、やたらとマッチョイズムな男たちの話し合いは終わったようだ。
お互い頷きあうと、示し合わせたようにそれぞれ違う方向へと駆け出していく。
遺跡外の市場に売られていた「美味しい草」にも似た緑色の髪の毛が、
走ることによって生じる風圧に揺れていた。
「……データにはない、な」
話を聞きながら地図を広げ、冒険者たちを洗ってみたがそれらしき人物は居なかった。
緑色の肌の冒険者は数名見当たったが、外見は似ても似つかない。
そもそも、男たちはどれも似たような外見をしていなかったか。
もしかすると、
「奴らも、遺跡の守護者だったか……」
接触を避けて正解だったようだ。
少なくとも無駄な争い、無駄な損耗は避けることができた。
「……行こう」
慎重に草陰から身を躍らせて、恭平は静かに走り出す。
それは、先ほどの緑色をした男が一人、駆け出していった方向だ。
こちらがその後を追う形になるが、どこで出くわすかは分からない。
道は隣の平原エリアへと続いている。
「……用心が必要だな」
腰に下げたナイフを確認して、恭平は新たなエリアへと足を踏み入れた。
-2-
草原に吹く穏やかな風には、潰れた草の汁にも似た臭いが混じっている。
強烈な青臭さに恭平は一瞬顔をしかめ、すぐに平静を取り戻した。
臭いの元は、草原の至るところに散らばった緑色の肉片だ。
否、肉に見えるそれは、よくよく見れば植物の組織体であるらしい。
それが、草原の其処此処にベッタリとした液体を撒き散らしながら落ちている。
どれも落とされてから半日以上が経過していた。
「血痕……」
緑片の傍らに残されたそれは、血の赤。
遺跡へと侵入した冒険者が傷ついた痕跡だろう。
だとすれば、ここでは戦闘が起こっていたということか。
「いったい、何と戦えば……こんなことになるんだ?」
植物に襲われたとでもいうのだろうか。
恭平の常識には人間を襲う植物など存在しない。
しかし、この遺跡の中ならば、それも在り得るのか。
「決め付けるのは危険だな……」
恭平は、既に己の知識だけで測ることのできない世界へと足を踏み入れている。
それに納得しているわけではないが、直感がそう告げていた。
安易に判断すれば、命取りになるだろう。
「……毒は、ないか」
ペロリ と指先に付けた緑色の液体を舌で舐めとり、じっくりと味わう。
それはキャベツにも似た味わい。
毒がないのであれば、料理すれば意外といける口かもしれない。
「好き好んで食べたいものでもないが、な」
そこまで考えて、恭平は苦笑した。
食料に困れば、得体の知れないものを口にしなければならないこともあるだろう。
だが、今はその時ではない。
「……ん?」
無造作に手をズボンに擦り付けて、恭平がその場を離れようとしたとき、
風に混じる草の臭いが強まった。
「ちっ……現物の御登場か……」
眼光鋭く、ナイフを抜き放つ。
臭いは近い――そして、近づいてくる気配は二つ。
戦士の勘は、警鐘を鳴らし続けている。