血の染み付いた手帳
しがない傭兵が偽りの島で過ごした日々の記録
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05101514 | Day37 -泡沫- |
-ⅰ-
闇よりも暗い獣は、口惜しそうにその場を去った。
鋭い眼差しで去っていく獣を見送り、その姿が視界の果てに消えてから、
傭兵は荒い息をついてその場に膝を突いた。
握力を失った両の手から、重量のあるグルカ刀がドサリと落ちる。
全身の傷からは血が溢れだし、傭兵の足元に鉄サビ色の水溜りを作る。
――傭兵の肉体は、とうに限界を超えていたのだ。
息がつまり、熱いものが喉元から競りあがってきて、
傭兵は自分の血溜まりへと吐瀉物をぶちまけた。
霞む視界、手探りで荷物から水を見つけ出し、どうにか蓋をあけて口につける。
肺腑が軽く痙攣を起こしており、飲み込むことすら困難な様子であった。
座り込んだ姿勢のまま動くこともできず、血と吐瀉物に塗れながら、
傭兵はただ、自分の身体が癒えるのを待った。
肉体から離れ、ただ鋭敏になった感覚は、周囲のことを傭兵に伝えてくれる。
ここから先、歩いてひと時もかからない程の場所に、
先ほどの獣など比べ物にならない何かの気配があった。
それが、傭兵の目指すものなのかどうかは、分からない。
しかし、先刻見た地図の地形を思い出してみれば、避けて通れない地点でもあった。
傭兵が遺跡を守る側であったならば、そのような要所に罠を仕掛けるだろう。
守りにまわった側の、初歩的な戦略といえた。
「……は、はは」
呼吸が楽になり始め、筋肉の痙攣は絶頂を極めた。
突っ伏すように地面に倒れこみ、無理やり体を捻って仰向けになる。
回廊に潜む魔物がうごめいているのが、視界の隅に映った。
彼らはあの美しくも孤独な迷宮から、永遠に外へ出ることは適わないのだ。
風に混じる獣の臭い、冒険者の臭い――それらに気を配りながら、傭兵は歯を食いしばる。
いま、再び襲われたなら、もう勝ち目はない。
あの獣の気配は、すでに遠くへと霞んで消えていた。
「……少し、休むか……」
饐えた自身の臭いに眉をひそめながら、傭兵は静かにそっと目をとじた。
目覚めたら、歩き出すのだ――次の、戦場へと。
-ⅱ-
傭兵が浅い眠りについて、少しの時間がたった。
何もない空間である。ただ、白い、それだけの空間。
乙女は、傭兵より早く、その地点にたどり着いていた。
ただ広いその空間に繋がる道は多いが、そのどれもがこの先には通じていないのだろう。
冒険者らしき集団が乙女と同様に小道から姿を現す度、その直感はより強いものとなった。
つまりは、何かをしなければ、先へと続く道は開かれないのだ。
その、何かが分からない。
「……困ったわねェ」
言うほどに、その口ぶりは困ったようでない。
乙女には別の直感もあった。
――自分は、この先に進む必要などない。
そういった思いがあるから、すでに何人もの冒険者を見送りながら、
自身が出てきた小道の脇に腰をおろし、エプロンの繕いなど悠長に行っている。
その感覚の糸が届く範囲には、先ほど傭兵が感じた気配の持ち主はいない。
ただ、ときおり、目に見えて冒険者の数が減っていることに気づくだけである。
いつ消えたのか、どこへ行ったのか――それは乙女をしても、定かではない。
彼らの大勢が、気づいたときには消えていた。
「……」
エプロンを繕い終え、泥と血に汚れた顔のメイクを整えなおす。
乙女たるもの、いついかなるときも気を抜いてはならない。
街角で、喫茶店で、夜のダンスホールで、硝煙渦巻く戦場で――。
いつ、運命の人と出会うかは分からないのだから。
「……私は、誰かを待っているのねェ?」
退屈紛れに、自問自答してみる。
それが正しいのだと、理解はしていないが、納得していた。
乙女は誰かと出会うために、ここにとどまっているのだ。
「……もしかして、紫のバラの人? かしら♪」
楽しげに、くすくすと笑う。
その頃には、数多くいた冒険者の姿もすでになく、白い空間に乙女ひとりとなっていた。
だが、待ち人は来ない――。
「でも……そろそろ、来そうな気がするのよねェ」
すっかり武装を整え終えた乙女は、そう呟いて立ち上がった。
エプロンの裾をはらい、襟元を正す。
――それは、乙女の正面。最も大きな横穴から、ゆっくりと近づいてきていた。
-ⅲ-
細長い横穴は何度もの合流を繰り返して、人が三人肩を並べて歩けるだけの規模となっていた。
先の回廊に比べれば蝙蝠の糞などもあり、ずいぶんと心安らぐ洞穴である。
松明の光もなく、自身の夜目と感覚だけを頼りに、傭兵はその中を歩いていた。
足元に転がる拳大の岩を、軽々と避けながら、身体に負担のかからない速度で進む。
目指すべき場所がこの先にあることは間違いない。
洞穴の入り口にたどり着いてから、傭兵が身を休めている間に、三組の冒険者がその洞穴へと姿を消したが、いまだに出会っていない。
道は一本道――この先がどこかへ繋がっていなければ、出会っているはずである。
それに、あの気配もいまだその場所を離れてはいない。
近づいていることが、傭兵には感じ取れていた。
――ただ、その気配が今は二重に感じられたが。
「……蛇が出るか、鬼が出るか」
牙のように垂れ下がった鍾乳石の下をくぐろうとすると、その先から蝙蝠の群れが羽ばたきながら飛び出してきた。
血や肉を好む種類ではない。おそらくは、森の果実を主な糧として生きているのだろう。
人が通り抜けられるほどではなくとも、外に通じる小さな穴が無数に走っている。
「……強い風が吹いている。この先から、だな」
這うようにして進むと、さらに天井の高い通路へと抜けた。
先ほどまで無数に転がっていた石ころが、ここにはひとつも見つけられない。
床も磨いたかのようになだらかで平坦になっている。
少なくとも、人の手が加えられていることは疑うまでもない。
「……近い、な」
短剣を引き抜き、いつでも飛びかかれるようにして、じりじりと前へ進む。
赤茶けた岩肌が徐々に消えて、白い人造石に取って代わられた。
突然、薄闇が途切れ、無数の電灯で照らし出したかのように白い空間が姿を現した。
――一歩足を踏み入れると、そこが目的の場所であったと知れた。
「……あなたなの?」
その声は突然、認識の外、傭兵の正面からあがった。
どうして気づくことができなかったのか――身長はゆうに彼ほどもある大女がそこに立っている。
気配を隠している様子もなく自然体。だが、傭兵は、気づくさえできなかった。
「……なんだ?」
――お前は。 そう言おうとした声が、一陣の風に奪われた。
白砂舞う穏やかな風のなか――乙女と傭兵は、奇妙な出会いを果たした。
闇よりも暗い獣は、口惜しそうにその場を去った。
鋭い眼差しで去っていく獣を見送り、その姿が視界の果てに消えてから、
傭兵は荒い息をついてその場に膝を突いた。
握力を失った両の手から、重量のあるグルカ刀がドサリと落ちる。
全身の傷からは血が溢れだし、傭兵の足元に鉄サビ色の水溜りを作る。
――傭兵の肉体は、とうに限界を超えていたのだ。
息がつまり、熱いものが喉元から競りあがってきて、
傭兵は自分の血溜まりへと吐瀉物をぶちまけた。
霞む視界、手探りで荷物から水を見つけ出し、どうにか蓋をあけて口につける。
肺腑が軽く痙攣を起こしており、飲み込むことすら困難な様子であった。
座り込んだ姿勢のまま動くこともできず、血と吐瀉物に塗れながら、
傭兵はただ、自分の身体が癒えるのを待った。
肉体から離れ、ただ鋭敏になった感覚は、周囲のことを傭兵に伝えてくれる。
ここから先、歩いてひと時もかからない程の場所に、
先ほどの獣など比べ物にならない何かの気配があった。
それが、傭兵の目指すものなのかどうかは、分からない。
しかし、先刻見た地図の地形を思い出してみれば、避けて通れない地点でもあった。
傭兵が遺跡を守る側であったならば、そのような要所に罠を仕掛けるだろう。
守りにまわった側の、初歩的な戦略といえた。
「……は、はは」
呼吸が楽になり始め、筋肉の痙攣は絶頂を極めた。
突っ伏すように地面に倒れこみ、無理やり体を捻って仰向けになる。
回廊に潜む魔物がうごめいているのが、視界の隅に映った。
彼らはあの美しくも孤独な迷宮から、永遠に外へ出ることは適わないのだ。
風に混じる獣の臭い、冒険者の臭い――それらに気を配りながら、傭兵は歯を食いしばる。
いま、再び襲われたなら、もう勝ち目はない。
あの獣の気配は、すでに遠くへと霞んで消えていた。
「……少し、休むか……」
饐えた自身の臭いに眉をひそめながら、傭兵は静かにそっと目をとじた。
目覚めたら、歩き出すのだ――次の、戦場へと。
-ⅱ-
傭兵が浅い眠りについて、少しの時間がたった。
何もない空間である。ただ、白い、それだけの空間。
乙女は、傭兵より早く、その地点にたどり着いていた。
ただ広いその空間に繋がる道は多いが、そのどれもがこの先には通じていないのだろう。
冒険者らしき集団が乙女と同様に小道から姿を現す度、その直感はより強いものとなった。
つまりは、何かをしなければ、先へと続く道は開かれないのだ。
その、何かが分からない。
「……困ったわねェ」
言うほどに、その口ぶりは困ったようでない。
乙女には別の直感もあった。
――自分は、この先に進む必要などない。
そういった思いがあるから、すでに何人もの冒険者を見送りながら、
自身が出てきた小道の脇に腰をおろし、エプロンの繕いなど悠長に行っている。
その感覚の糸が届く範囲には、先ほど傭兵が感じた気配の持ち主はいない。
ただ、ときおり、目に見えて冒険者の数が減っていることに気づくだけである。
いつ消えたのか、どこへ行ったのか――それは乙女をしても、定かではない。
彼らの大勢が、気づいたときには消えていた。
「……」
エプロンを繕い終え、泥と血に汚れた顔のメイクを整えなおす。
乙女たるもの、いついかなるときも気を抜いてはならない。
街角で、喫茶店で、夜のダンスホールで、硝煙渦巻く戦場で――。
いつ、運命の人と出会うかは分からないのだから。
「……私は、誰かを待っているのねェ?」
退屈紛れに、自問自答してみる。
それが正しいのだと、理解はしていないが、納得していた。
乙女は誰かと出会うために、ここにとどまっているのだ。
「……もしかして、紫のバラの人? かしら♪」
楽しげに、くすくすと笑う。
その頃には、数多くいた冒険者の姿もすでになく、白い空間に乙女ひとりとなっていた。
だが、待ち人は来ない――。
「でも……そろそろ、来そうな気がするのよねェ」
すっかり武装を整え終えた乙女は、そう呟いて立ち上がった。
エプロンの裾をはらい、襟元を正す。
――それは、乙女の正面。最も大きな横穴から、ゆっくりと近づいてきていた。
-ⅲ-
細長い横穴は何度もの合流を繰り返して、人が三人肩を並べて歩けるだけの規模となっていた。
先の回廊に比べれば蝙蝠の糞などもあり、ずいぶんと心安らぐ洞穴である。
松明の光もなく、自身の夜目と感覚だけを頼りに、傭兵はその中を歩いていた。
足元に転がる拳大の岩を、軽々と避けながら、身体に負担のかからない速度で進む。
目指すべき場所がこの先にあることは間違いない。
洞穴の入り口にたどり着いてから、傭兵が身を休めている間に、三組の冒険者がその洞穴へと姿を消したが、いまだに出会っていない。
道は一本道――この先がどこかへ繋がっていなければ、出会っているはずである。
それに、あの気配もいまだその場所を離れてはいない。
近づいていることが、傭兵には感じ取れていた。
――ただ、その気配が今は二重に感じられたが。
「……蛇が出るか、鬼が出るか」
牙のように垂れ下がった鍾乳石の下をくぐろうとすると、その先から蝙蝠の群れが羽ばたきながら飛び出してきた。
血や肉を好む種類ではない。おそらくは、森の果実を主な糧として生きているのだろう。
人が通り抜けられるほどではなくとも、外に通じる小さな穴が無数に走っている。
「……強い風が吹いている。この先から、だな」
這うようにして進むと、さらに天井の高い通路へと抜けた。
先ほどまで無数に転がっていた石ころが、ここにはひとつも見つけられない。
床も磨いたかのようになだらかで平坦になっている。
少なくとも、人の手が加えられていることは疑うまでもない。
「……近い、な」
短剣を引き抜き、いつでも飛びかかれるようにして、じりじりと前へ進む。
赤茶けた岩肌が徐々に消えて、白い人造石に取って代わられた。
突然、薄闇が途切れ、無数の電灯で照らし出したかのように白い空間が姿を現した。
――一歩足を踏み入れると、そこが目的の場所であったと知れた。
「……あなたなの?」
その声は突然、認識の外、傭兵の正面からあがった。
どうして気づくことができなかったのか――身長はゆうに彼ほどもある大女がそこに立っている。
気配を隠している様子もなく自然体。だが、傭兵は、気づくさえできなかった。
「……なんだ?」
――お前は。 そう言おうとした声が、一陣の風に奪われた。
白砂舞う穏やかな風のなか――乙女と傭兵は、奇妙な出会いを果たした。
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