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血の染み付いた手帳

しがない傭兵が偽りの島で過ごした日々の記録
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  • :11/23/04:04

05101513 Day36 -協奏-

   -ⅰ-

 熱砂の砂漠を抜けると、そこは冷え冷えとた風の滞る回廊の入り口だった。

 額にかいた汗が急激に冷やされて、ぞくぞくした怖気に襲われる。

 その感覚も相まって、この回廊にはただならない気配が感じられた。

 それはこの先に待ち受ける存在が、放つ存在感によるものかもと乙女は思う。

 静かな回廊の中は、だがしかし、確かな生命の息づきに満ちていた。

 視線を闇の中に向ければ、淡い燐光を放つ精霊が飛んでいる。

 それらが眼に見えて映るのは、乙女がかつてこの島に暮らし、マナの影響を受けているからだ。

 ましてや、夢幻に捕らわれた身である乙女は、一種彼らと近しい存在となっている。

 ただし、本人がそれと知ることはない。

「……綺麗ねェ」

 闇の中に浮かんでは消える青白い輝きをうっとりと眺めやりつつ、乙女は先を急いだ。

 円筒状の回廊は折れ曲がることもせず、ただひたすらに真っ直ぐだった。

 その形状は下水を思わせるが、嫌な臭いなどはなく、無味無臭の気味悪さがあった。

 カツンカツンと乙女の足音が響くたびに、それが反響して何重にもなって返ってくる。

 よくよく意識を集中しなければ、どれが本当の足音なのかも分からない状況だった。

 気を抜けばそれに混じって、遺跡の怪物が襲い掛かってくるかもしれない。

 あくまでも、足取りは軽やかに。

 だが、周囲八方に向けられた、乙女の警戒のアンテナは尋常のものではない。

 ここは、そういう場所なのだ。

 眼を凝らせば、闇の中に回廊の壁面が浮いて見える。

 繋ぎ目すらないつるりとしたその表面に縦横無尽に走っているのは、

 他ならない怪物の爪痕であり、一見模様に見えるそれは彼らの返り血であった。

 惨劇の跡があたり一面に広がっているにもかかわらず、ここは静謐さを保っている。

 それらの殺戮さえも、無音のうちに行われたということか。

 遺跡のどれほどの深さに相当するかは分からないが、

 この階層の危険度は、上階と比べるまでもないことは明らかであった。

「嫌な風ねェ。何も、感じないわァ……」

 ときおり、円筒状の回廊内を、いままで来た道へと向かって生暖かな風が吹き抜けていく、

 のっぺりと頬を風が撫ぜていく感覚は、いかにも無機質で不快だった。

 その中には、獣の臭いのひとつも感じない。

 さきほどから見られるのはやはり、精霊や死霊の類ばかり。

 この回廊にはいってからというもの、気配こそ感じるものの、

 動物のような有機体といまだに出会ってはいなかった。

「薄気味悪いはねェ……何か、嫌な予感がするわ」

 何も起きなさ過ぎることが、懸念であり、乙女の第六感を刺激するのだ。

 悪いことが起きるような気がして、乙女は警戒を強めながらもただただ前へ進んでいた。



   -ⅱ-

 傭兵は追われていた。

 継ぎ目のひとつもない白亜の回廊――うねりながら、先へと続いている。

 出所の定かではない照明が生み出す影から、次から次へと生み出される怪物たちが、

 傭兵を捕らえ闇の中に引きずり込もうと、うごめいていた。

 彼らは影の中から出てこれないというルールを背負っているものの、

 彼らが捕まえるのは傭兵自身ではなく、彼の身体を軸として伸びる影だった。

 切れば切れもするし、あらゆる物理的な対処は有効であったが、

 それは一時凌ぎにしかならず、そうこうしている間に新たな影が闇から生み出された。

「……ちぃッ!!」

 影が引っ張られると同時に、傭兵の身体も後方へと引かれるような感覚に捕らわれる。

 それと同時に、閃いた短剣が影を切断し、傭兵の身体は自由を取り戻していた。

 電光石火――さらに群がる影を避けるようにして、地面を蹴って加速する。

 ちらりと後方を見やれば、今まで光り輝いていた回廊が、いつしか闇に飲まれていた。

 闇は徐々に背後から迫ってきている。

 ここまで来て、傭兵はこの回廊を照らし出す灯りは常に前へと進んでいるのであり、

 そこから外れた場所は全て闇に沈んでいるのだと気づいた。

「罠かどうかは知らないが……そういうことか――前へ進むしか、ない」

 即断――全速で駆け抜ける。

 それに合わせてかどうか、闇が迫る速度も勢いを早増した。

 つるりとした回廊に配置された奇妙なオブジェ――よく見ればそれは獣に見えないだろうか。

 雄雄しく剣を掲げた戦士の像は、まるで生きたままの人間を固めたように見えないだろうか。

 無呼吸下の高速移動を行いながら、傭兵は感じ取っていた。

 おそらくは無数に存在する回廊のひとつ――それは、生命を石に封じてしまう場所なのだと。

「……まるで……食虫植物のような、道だッ……」

 何も知らない生物や、冒険者が入り込むのを待って、彼らを石と化してしまう。

 光の中という安全地帯を設けたのは、それ以外の意味が込められているからでもあろうか。

 何者かの意図など関係はない――石にされるわけにはいかない。

 傭兵はただ駆ける――全身を酷使し続け、息は限界に達している。

 しかし、立ち止まることは許されない。

 何度となく緩やかなカーブを曲がり、オブジェを蹴り飛ばして、ただ前に。

 その遥か前方に、回廊の出口が見えた。

「……くッ」

 悲鳴をあげる身体に鞭打って、さらに加速する。

 回廊の先に広がる光が、ぐんぐんと近づいてくる。

 あとほんの少しというそのとき――闇の壁が、傭兵の前に立ちはだかった。

 醜悪な人型の影が、その闇の淵から傭兵を捕らえようと四肢を伸ばす。

「……じゃ、ま……だ!

 眩く電光の如く銀糸が放たれた――闇を切り裂き、縦横無尽。

 回廊の壁面に、細かな傷を残して銀糸は跳ね回る。

 細切れにスライスされた闇を背後に、傭兵は回廊の先へと降り立った。

 笑う膝を強引におさえて、胸いっぱいに新鮮とは言いがたい空気を取り入れる。

 カビと埃がトッピングされたその空気は、それでもやはり美味いものだった。

   -ⅲ-

 同時刻――さほど離れてもいない、それぞれの場所。

 二人は同時に、回廊を抜けた。

 その眼前に立ちはだかる、一頭の獣。

 声もなく、音もなく、それは二人へと襲い掛かる。

 闇のような瞳を、爛々と輝かせて――。
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