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血の染み付いた手帳

しがない傭兵が偽りの島で過ごした日々の記録
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  • :11/22/20:50

02080011 Day31 -童心-

   -ⅰ-

 目覚めは、激痛をともなった。
 
 森の奥深く、横たわる牙狼の亡骸――その内に抱かれた男、孤独な傭兵。
 
 憔悴した頬には二条傷――臆病なうさぎが隠した牙、鳴尾恭平。
 
 安らぎではない眠りから帰還した男は、憔悴しきっていた。
 
 彼を死の半歩前まで追い詰めた強敵――物言わぬ亡骸たる密林の野獣。
 
 牙もつ狼が残したもの――雑菌による発熱。
 
 死へと半歩まで踏み込んでいた恭平を、高熱はさらなる苦境へと追いやった。
 
 朦朧とする意識、視界はぼやけ、指先は麻痺した。
 
 傭兵の選択――早急なる睡眠。
 
 生存に一縷の望みと、闘争の意志を強く秘めて、恭平は牙狼の亡骸に寄り添い眠りについた。
 
 それが昨晩――傭兵は朝日を再び目にした。
 
 生き延びたのだ。
 
 病魔は最も恐ろしい敵だった。
 
 直接的な脅威は、取り除くこともできる。敵は、打倒すればいい。罠ならば、取り除けばいい。
 
 いかに屈強な傭兵であろうと、歴戦の戦士であろうと、極小の細菌を切り刻むことはできない。
 
 ここが都市ならば、有効な処方もあるかもしれない。
 
 医学は進歩している。
 
 しかし、それも限られた環境にあってのことだ。
 
 鬱蒼とした密林――ここは、人間の土地ではない。
 
 守られた環境を一歩踏み出せば、人も数ある獣のひとつに過ぎないのである。
 
 獣は自然界のルールに逆らうことはできない――すなわち、食うか、食われるか。
 
 頼りとなるのは、己の力だけ――眠りの狭間で繰りひろげられたのは、恭平と病との死闘である。
 
「……くっ」

 朝日が、眼に差し込んで思わず顔を背けた。
 
 発熱の影響か、いつも以上に光がまばゆく感じられ、直視に耐えなかったのだ。

 牙狼の毛皮にもたれかかるようにして、光を避ける。

 すっかり体温の去った肉体だが、恭平自身の熱が移り、よい防寒具と化していた。

 恭平が病との戦いに勝利した理由のひとつ――病をもたらした牙狼が残した温もり。

 季節は冬に差し掛かって久しい。

 吐く息も白くなるほどにこの森も寒い。
 
 その中にあって恭平が凍えずにすんだのは、牙狼の巨体が風防となってくれたからだ。

「……」

 呼吸を整えて、じっくりと光に目を慣らす。

 白んで見えた世界が、次第に色を取り戻し、いつもの風景が恭平の前に戻ってきた。

 むしろ、以前よりもよく見えるぐらいだ――視神経が刺激されているのかもしれない。

「……強敵だった」

 立ち上がり、恭平は倒れふした戦士にわずかながら黙祷をささげた。

 勝負を分けたのは、最後の一撃。

 牙狼の強力な歯牙が、恭平の身体をとらえていたなら、相打ちとなっていただろう。

 あの一瞬――相手の肉体に短剣を打ち込みながら、刺さった刀身を支えとして恭平は跳躍した。

 牙狼は恭平の眼前を通り抜け、そして、力尽きた。

 恭平もまた、受身も取ることができず地面に叩きつけられたが、彼は生きていた。

 そして、今も生きている。

 二つの勝利を胸の内に隠し、恭平は感傷をぬぐい捨てた。

 ただでさえ行程は遅れている。

 体力も完全には戻っておらず、万全とは言いがたいが先を急がなければならない。

「……急がなくては、な」

 ふらふらと歩きながら、恭平は自分の荷物を探した。

 近くの草むらに倒れているそれを発見し、肩に担いで牙狼の遺体まで戻る。

「……お前に、感謝する」

 そして、短剣を抜くと、恭平は静かに作業を開始した。



   -ⅱ-
 
 いつも以上の時間をかけて、肉の解体を終えた。
 
 毛皮は防寒着に、牙は武器の素材ともなる。
 
 肉は、ほんのわずかだけを削り取り、残りはその場に残した――他の獣が喰らい、自然へと戻すだろう。
 
 埋もれた骨は墓標であり、十字架の代わりに短剣が地面に突き立っている。
 
 太陽もずいぶんと高く昇り、恭平の体力もいくらか戻ってきていた。
 
 赤く染まった下生えの草を見やり、荷物を背負うと恭平は歩き出した。
 
 森の中を流れる風の中に、水の香りが混ざっている。
 
 水の宝玉が生み出す透明な香りとはまた違った、濁りのある香り――自然の川が近くを流れているのだ。
 
 頭を撫ぜると、血の塊がふけのようにパラパラと待った。
 
 下着も服も、ことごとくが血まみれだ。
 
 気になるわけではないが、これから先、血の臭いを振りまきながら進むことは避けたほうがいい。
 
 水辺を見つけると、恭平は衣服のまま水のうちに飛び込んだ。
 
 水中でシャツを脱ぎ、すべてを水に浸しながら手揉みに洗う。
 
 時間のたった血痕は落ちなかったが、これだけで臭いはずいぶんと薄まるものだ。
 
 生まれたままの姿で水中から身を上げると、身体の熱により蒸気が立ち昇った。
 
 いまは水中の方が暖かなぐらいで、日中であろうとも外気は肌を裂くように冷たい。
 
 荷物から厚手の布を取り出し腰に巻き、身体の上半身には血を拭いた狼の毛皮を纏いこんだ。
 
 この獣臭は森往来のもの、恭平の姿を隠すには役立つ。
 
 革のベルトに短剣をさし、腰の両端から下げた。
 
 自然のうちに身体を乾かし、編みこみのブーツに足を通す。
 
 その隙間に、やはり、投擲剣を差し込んだ。
 
 傍目には森の蛮族のよう――胸元を止めるは、削りだされた狼の骨。
 
 頭にも布を巻き、狼の頭部をフードのようにして被せた。
 
 獣の気持ちとなって、再び歩き出す――最も険しい獣道を選び。
 
 その姿は、雄々しい獣のように。
 
 
   -ⅲ-

 ふいに鼻を突いた場違いな金属の香り――恭平は川辺に茂る葦から顔を覗かせて周囲をうかがった。

 突き出された狼の頭が、首の動きにあわせてふるふると揺れる――遠めには一匹の獣として映る。
 
 人の気配があるではなし、ただ、微かな人の痕跡のようなものが漂っている。
 
 それも、この島のものではない――より、文明の発達した。この世界のどこか。
 
 ふいに忘れそうになるが、世の中の技術というのは進んでいるものだ。
 
 食料の保存も、ずいぶんと楽になった。
 
 そう、この臭いは――缶詰の臭いだ。少なくとも、それに近い何か。
 
 微かな人の残り香と、自然にはない金属の集合体が放つ違和感を、恭平は察知したのだった。
 
 視界の端で、何かがキラリと光る。
 
 絶ち折られた木の株に、円筒形の何かが高く積み上げられていた。
 
 アルミ缶――この島へと来て、これを見るのは初めてかもしれない。
 
 港に行けば、缶詰は売りに出されている。日持ちがいいそれらは、貿易の品としても重宝されているから。
 
 しかし、そこにアルミ缶はなかったはずだ。
 
 目を凝らせば、表面にはオレンジを模したマーク――恭平が見慣れた他国の文字。
 
 彼の血にも混じる、とある小さな島国の言語。
 
 違和感――なぜ、これらがそこにあるのか。
 
 罠を警戒しながら近づく、なにごともなく、たどり着いた。
 
 やはり人の気配はなく、ただ、アルミ缶が置いてあるだけだ。
 
 製造されて、まだ日の浅い――ましてや新品同然の品物。
 
「……貰っておくか」
 
 飲み斧は大いに越したことはない。
 
 恭平は、無造作に手を伸ばした――そして、飛びのいた。
 
 生まれた気配は眼前。
 
 アルミ缶の山を押しのけて、それは姿を現した。
 
 円筒形のフォルム、古びて傷だらけになった身体、輝きを失いながらも威厳を称えた赤褐色。
 
 冷気に触れて、冷え冷えとした身体からは冷徹な気配が漂っている。
 
 それは、腕をひょいと伸ばして、恭平を指差すかのようなしぐさをした。
 
「……なんだ?」

 短剣をすばやく抜き放ち、そいつを見下ろす三白眼――いつもよりは、わずかに見開かれている。
 
「……ふん」

 何かを懐かしむように、その口の端がニッと薄く吊り上げられた。
 
 ――奇妙な戦いが始まろうとしていた。
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