血の染み付いた手帳
しがない傭兵が偽りの島で過ごした日々の記録
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02040955 | [PR] |
09030057 | Day12 -人食- |
-0-
狼の必殺の牙を前に、男は倒れ伏した。
ドクドクと芳醇な香りを放つ血が流れ落ち、狼の鼻を突く。
久方ぶりのご馳走を前に、胃がグルルと鳴いた。
肉だ。美味そうな肉。
群れを追われてからの辛い日々を思い返す。
何日、餌にありついていないのだろう。
何日、飲まず食わずで走り続けたのだろう。
しかし、そんなことは些細なことだ。こうして、肉にありつける。
最後の一撃を放って、男と同様に地に倒れていた狼は無理やり身体を動かした。
全身がズキズキと痛む。
男との激闘が、彼の身体にダメージを残していた。
強い男だった。老いたとはいえ、彼の牙を前にして果敢に戦いを挑んできた男だ。
彼を群れから追い出し、新たな王となった若い狼。奴を思い起こさせる男だ。
それに勝利した。
その喜びは、肉を前にして、これから食の欲望を満たす喜びにも勝る。
彼は、たとえ敗れても、群れの王だった。
王の、矜持があった。
「肉だ――。」
ヘッヘと荒い息をついて、円を描くようにして男へと近づいていく。
まだ、とどめはさしていない。狩りの最後は、喉笛を彼直々に切り裂いて溢れ出る血に身を浸すのが慣わしだ。
今までは弱める肯定は全て、若い雄の仕事だった、
彼の役目は倒れ伏した贄に安らぎを与え、血の雨をもって肉の神に謝辞を述べること。
しかし、その日々が彼から戦士としての力を奪い。
若い狼たちは戦いの日々から、彼を凌ぐ力を身につけていた。
それが、ことの始まりだ。
誰しもが、いずれは乗り越えられる。
「肉――。」
もはや、男は眼と鼻の先に横たわっている。
指先は微かに動いているが、血を流しすぎたのか既に眼は何も映してはいない。
いままでの獲物と変わりない姿――そう、そんな贄の首筋に牙を打ち込む瞬間が彼は何よりも好きだった。
「肉の神――贄の血を――。」
祝詞を唱えながら、彼は大きく顎を開き、横たわる屈強なウサギの首筋に自慢の牙をあてがった――。
-1-
「――伏せろ!」
誰かの言葉に、幾人かは慌てて姿勢を低くした。
次いで、巻き起こる爆風は木々をなぎ倒し、反応が遅れた兵士の喉を焼き、肌をただれさせる。
ましてや、爆心地に近いものなど全身をずたずたにされ、もはや原形をとどめていない。
「ち、俺たち相手に随分と贅沢な使い方だな。」
身を低くした恭平の横で忌々しそうに呟いた男は、恭平よりも幾分か若かった。
しかし、この戦場での経歴は彼よりも長い。
この島で争いが起きてから、それが泥沼化して、もはや勝者がいなくなった現在までを男は生きてきた。
初期の混乱の最中に母は凶刃に倒れ、父は島民の代表として果敢に戦い、男をかばって今日のような爆発の前に散った。
上質な火薬の産地として知られたこの島だ。
今はもう火薬の生産技術も戦火の前に失われてしまったが、戦前の遺産とも言うべき大量の火薬がいまだ眠っていた。
だが、二度と作ることのできない火薬である。
国際市場ではその質を高く評価され、驚くほどの額が付けられて取引されている。
敵はその火薬を、恭平たち一個小隊に惜しげなく使っていた。
「……まずいな。分断されている。」
戦場のプロとして招聘され、恭平は島民たちが組織した反抗組織に身を寄せていた。
その彼が指揮する一団が、度重なる爆炎によって分断されている。
「シガルも、レチンも、やられちまったぁ。……こいつぁ、形見だ。」
横目で男を見やると、その手に無骨な男の親指を握り締めている。
その本体は爆風に巻き込まれ試算してしまったのだろう。
野良仕事と、戦争に鍛えられた男の、汚れた指先がその手の中にあった。
「……大事にとっておけ。」
視線をはずして、前方を見る。
爆発は今も断続的に起こっているが、男と恭平の背後にはまったく起きていないことが知れた。
敵の狙いは単純明快だ。
「……追い込もうとしているな。」
「後ろにゃ、奴らの主力がいるからなぁ」
ここでは爆薬と、後衛の敵主力部隊とが、前門の虎と後門の狼だった。
爆炎による戦力の分散と、主力部隊による各個撃破が狙いなのは必定。
主力を突破するにはその層が厚すぎる。
活路はひとつ。
「……遅れるなよ。」
「へいへい――。」
男の返事を待たず、恭平は口元に濡れた布をあてがって走り出した。
爆風をぬうようにして前へ、前へ。
この道は村へと続く最短の道。
いつ爆破されるともしれない火薬の庭だが、それでも二人は駆け続けた。
-2-
降り注ぐ火の粉と、立ち上る爆炎の中を潜り抜けてから三日。
恭平たちが拠点とする砦まであと少しというところ。
飲まず食わずで走り続けた二人の戦士は、限界を迎えていた。
火傷を負って歩けなくなった男を、恭平は担いだまま先を急ぐ。
しかし、その足がもつれて、二人はどうと地上に投げ出された。
焼け野原となった森の中。
失われた水分を求めて、ゼイと喘ぐ。
「恭平……ひとりで、行けよ。」
そう漏らしたのは、男だった。
全身に火傷を負って、もはや足には感覚がない。
まるでクラゲのように、恭平に背負われていた間も、ブラブラとぶら下がるだけに成り果てていた。
二度と、歩くことはかなわないかもしれない。
「あと三日も歩けば、戻れらぁ。お前一人なら、いけんだろ。」
そう言う男の表情に悲壮感はない。
「……馬鹿を言うな。」
腕を支点に立ち上がりながら、恭平は男を睨みつける。
それは、唾棄すべき提案だった。
「本気さぁ。俺ぁ、助かんねぇ。――だからよ。」
しかし、それにも構わず男は続ける。
浮かべた薄ら笑いは、いつもと変わらない。
だからこそ、その言葉は真実なのだと肌で感じられた。
「俺を、食ってくれよ。」
ニヤッと笑い。
「妹を、頼むな。――あいつぁ、お前に惚れてっから。」
それは一瞬のこと。
咄嗟に動き出した恭平も、間に合わなかった。
銀光が鞘走り、鮮血が舞った。
狼の必殺の牙を前に、男は倒れ伏した。
ドクドクと芳醇な香りを放つ血が流れ落ち、狼の鼻を突く。
久方ぶりのご馳走を前に、胃がグルルと鳴いた。
肉だ。美味そうな肉。
群れを追われてからの辛い日々を思い返す。
何日、餌にありついていないのだろう。
何日、飲まず食わずで走り続けたのだろう。
しかし、そんなことは些細なことだ。こうして、肉にありつける。
最後の一撃を放って、男と同様に地に倒れていた狼は無理やり身体を動かした。
全身がズキズキと痛む。
男との激闘が、彼の身体にダメージを残していた。
強い男だった。老いたとはいえ、彼の牙を前にして果敢に戦いを挑んできた男だ。
彼を群れから追い出し、新たな王となった若い狼。奴を思い起こさせる男だ。
それに勝利した。
その喜びは、肉を前にして、これから食の欲望を満たす喜びにも勝る。
彼は、たとえ敗れても、群れの王だった。
王の、矜持があった。
「肉だ――。」
ヘッヘと荒い息をついて、円を描くようにして男へと近づいていく。
まだ、とどめはさしていない。狩りの最後は、喉笛を彼直々に切り裂いて溢れ出る血に身を浸すのが慣わしだ。
今までは弱める肯定は全て、若い雄の仕事だった、
彼の役目は倒れ伏した贄に安らぎを与え、血の雨をもって肉の神に謝辞を述べること。
しかし、その日々が彼から戦士としての力を奪い。
若い狼たちは戦いの日々から、彼を凌ぐ力を身につけていた。
それが、ことの始まりだ。
誰しもが、いずれは乗り越えられる。
「肉――。」
もはや、男は眼と鼻の先に横たわっている。
指先は微かに動いているが、血を流しすぎたのか既に眼は何も映してはいない。
いままでの獲物と変わりない姿――そう、そんな贄の首筋に牙を打ち込む瞬間が彼は何よりも好きだった。
「肉の神――贄の血を――。」
祝詞を唱えながら、彼は大きく顎を開き、横たわる屈強なウサギの首筋に自慢の牙をあてがった――。
-1-
「――伏せろ!」
誰かの言葉に、幾人かは慌てて姿勢を低くした。
次いで、巻き起こる爆風は木々をなぎ倒し、反応が遅れた兵士の喉を焼き、肌をただれさせる。
ましてや、爆心地に近いものなど全身をずたずたにされ、もはや原形をとどめていない。
「ち、俺たち相手に随分と贅沢な使い方だな。」
身を低くした恭平の横で忌々しそうに呟いた男は、恭平よりも幾分か若かった。
しかし、この戦場での経歴は彼よりも長い。
この島で争いが起きてから、それが泥沼化して、もはや勝者がいなくなった現在までを男は生きてきた。
初期の混乱の最中に母は凶刃に倒れ、父は島民の代表として果敢に戦い、男をかばって今日のような爆発の前に散った。
上質な火薬の産地として知られたこの島だ。
今はもう火薬の生産技術も戦火の前に失われてしまったが、戦前の遺産とも言うべき大量の火薬がいまだ眠っていた。
だが、二度と作ることのできない火薬である。
国際市場ではその質を高く評価され、驚くほどの額が付けられて取引されている。
敵はその火薬を、恭平たち一個小隊に惜しげなく使っていた。
「……まずいな。分断されている。」
戦場のプロとして招聘され、恭平は島民たちが組織した反抗組織に身を寄せていた。
その彼が指揮する一団が、度重なる爆炎によって分断されている。
「シガルも、レチンも、やられちまったぁ。……こいつぁ、形見だ。」
横目で男を見やると、その手に無骨な男の親指を握り締めている。
その本体は爆風に巻き込まれ試算してしまったのだろう。
野良仕事と、戦争に鍛えられた男の、汚れた指先がその手の中にあった。
「……大事にとっておけ。」
視線をはずして、前方を見る。
爆発は今も断続的に起こっているが、男と恭平の背後にはまったく起きていないことが知れた。
敵の狙いは単純明快だ。
「……追い込もうとしているな。」
「後ろにゃ、奴らの主力がいるからなぁ」
ここでは爆薬と、後衛の敵主力部隊とが、前門の虎と後門の狼だった。
爆炎による戦力の分散と、主力部隊による各個撃破が狙いなのは必定。
主力を突破するにはその層が厚すぎる。
活路はひとつ。
「……遅れるなよ。」
「へいへい――。」
男の返事を待たず、恭平は口元に濡れた布をあてがって走り出した。
爆風をぬうようにして前へ、前へ。
この道は村へと続く最短の道。
いつ爆破されるともしれない火薬の庭だが、それでも二人は駆け続けた。
-2-
降り注ぐ火の粉と、立ち上る爆炎の中を潜り抜けてから三日。
恭平たちが拠点とする砦まであと少しというところ。
飲まず食わずで走り続けた二人の戦士は、限界を迎えていた。
火傷を負って歩けなくなった男を、恭平は担いだまま先を急ぐ。
しかし、その足がもつれて、二人はどうと地上に投げ出された。
焼け野原となった森の中。
失われた水分を求めて、ゼイと喘ぐ。
「恭平……ひとりで、行けよ。」
そう漏らしたのは、男だった。
全身に火傷を負って、もはや足には感覚がない。
まるでクラゲのように、恭平に背負われていた間も、ブラブラとぶら下がるだけに成り果てていた。
二度と、歩くことはかなわないかもしれない。
「あと三日も歩けば、戻れらぁ。お前一人なら、いけんだろ。」
そう言う男の表情に悲壮感はない。
「……馬鹿を言うな。」
腕を支点に立ち上がりながら、恭平は男を睨みつける。
それは、唾棄すべき提案だった。
「本気さぁ。俺ぁ、助かんねぇ。――だからよ。」
しかし、それにも構わず男は続ける。
浮かべた薄ら笑いは、いつもと変わらない。
だからこそ、その言葉は真実なのだと肌で感じられた。
「俺を、食ってくれよ。」
ニヤッと笑い。
「妹を、頼むな。――あいつぁ、お前に惚れてっから。」
それは一瞬のこと。
咄嗟に動き出した恭平も、間に合わなかった。
銀光が鞘走り、鮮血が舞った。
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