血の染み付いた手帳
しがない傭兵が偽りの島で過ごした日々の記録
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03081625 | [PR] |
05101510 | Day35 -魔女- |
-ⅰ-
ふわりふわり、足場の悪い砂地を、軽やかな足取りで乙女は歩く。
さらさらと風が吹くだけで流れる粒の細やかな砂の上。
どのような技術によるものか、足跡ひとつ残らない。
目指すのは遥か遠方に感じるとても儚げな気配――乙女を呼ぶ存在。
それが、どのようなものなのか、想像のうちに思い描いてみる。
「ふふ、素敵な殿方だと良いのだけどぉ♪」
想像は自由だ――乙女の微笑に合わせて、薄桃色の日傘がふりふりと揺れた。
いまとなっては懐かしい遺跡の擬似太陽が、さんさんと乙女を照らしだしている。
夢の中に目覚めてからここへ至るまでに、乙女の感覚では一日が過ぎていた。
これほどまでに、長い夢を見た経験はない。
不自然な夢の世界――目覚めるには、それと出会うほかはない。
「……何を、果たせというのかしら?」
自然のうちに、乙女は理解している。
何かを果たさなければ、けして、この夢が醒めることはないのだと。
なぜ、乙女が選ばれたかは定かではない。
偽りの島――遥か南方に存在するという、宝玉の眠る島。
かつて、乙女自身が時を過ごした。
そんな乙女が、この地を離れて、もう、三年が経過している。
望んでのことではないが、最終的に離れることを決意したのは乙女に他ならない。
強制的な退去までに、時間は残されていたが、乙女は一足早く旅立ったのだ。
誰にも、最後の別れを告げることなく――
とても、不義理なことをしてしまったと思う。
いち早く旅立ちたかった――それは、乙女自身のエゴでしかない。
しかし、その決意を乙女に与えてくれたのは、乙女を支えてくれた人々。
偽りの島の冒険で、出会った人々の存在に他ならない。
――寂しさを教えてくれた彼女が、残していった孤独。
それが、乙女をこの島へと導いた。
――それを癒してくれたあの子たち……。
脳裏に浮かぶ、乙女サロンの賑やかな風景。
そこに足を踏み入れたことのない不器用な男と、幼い少女の姿も思い浮かべられる。
彼女たちと過ごした日々が、乙女に過去と向き合う勇気を与えてくれた。
それから、三年――乙女は世界の紛争地帯を歩いて回った。
自身がもたらした結末と向き合い――全てを、受け止めた。
――お墓参りも、何年ぶりだったかしら。
それはきっと、初めてのことだったかもしれない。
三年、短い期間ではない――だが、全てを回るのに、三年を要した。
傷も、新たに増えた――それほどの、旅だった。
「……そして、あの子と出会った」
真に目覚めれば、その少女は、乙女の腕の中で寝息をたてていることだろう。
始まりの島――いつしか、乙女はこの島をそう呼ぶようになっていた。
――血と殺戮に彩られた戦いの日々
――彼女と暮らしたスリル溢れる生活
――その果てに手に入れた、第三の人生
その日から、乙女は探し続けていた。
始まりの地を。
そして、乙女にとって、終わりとなるであろうこの地を。
「探しても見つからないこの島が、夢の中で見つかるなんて♪」
一度離れた島への道は、思い出すこともできない。
それが、招待状に記されたルール。
望みを手にするか――全てを失うか。
さもなければ、島を離れることはできないのだ。
不完全な状態で離島したためか、その全てが失われたわけではなかったが。
かといって、たどり着くことは容易でもなかった。
その明確な情報を手にしたのは、昨夜、眠りに就く前のことだ。
古びた宿の一室――簡素なベッドの枕元。
かつて見たものと同じ手紙が、そこに落ちていた。
偽りの島へと冒険者を誘う、何者かからの招待状。
運命の片道切符を、乙女たちは手に入れたのだ。
「その直後に、この夢――できすぎ、というものねぇ?」
自問自答――因果的なものを感じずにはいられない。
探しても探しても見つからなかったものが、こうも簡単に見つかったのだ。
乙女の勘は、その背景に何かを感じとる。
「あら――」
もの思いに耽りながらも、足を進める乙女の前方に、何者かが立っていた。
美しい白砂の砂漠にあって、それよりもなお白い人影。
まるで、ウェディングドレスのような衣装を身にまとい、眠るように目蓋を閉じている。
近づくと、とても美しい女性だと知れた。
「まぁ……♪」
その端正な横顔に、思わず嘆息する。
――物語の中の眠れる森のお姫様みたいな方ねぇ♪
ドキドキと高鳴る胸――それは、乙女回路の超反応。
乙女は足を止めて、女性に向かってにこやかに微笑みかけた。
眠っているのか、起きているのか。
にこにこしながら、じっと眠り姫の動向をうかがう。
「――あなた」
乙女より先に、眠り姫の唇が涼やかな声を紡いだ。
「……お料理は、得意かしら?」
女性の問いかけ――乙女の瞳がキラキラと輝く。
白砂の稜線が描き出す美しい風景の中。
乙女は、眠れる茨の魔女と、出会った。
05101509 | Day34 -乙女- |
-ⅰ-
――それは、天啓だった。
三年ぶりに戻った街――かつて暮らした住まい。
その入り口に程近いゴミ捨て場の片隅に、彼女はそれを見つけた。
――少女だった。
雨が降っていた――春を迎えていない雨は冷たく、少女の身を濡らしていた。
身にまとう衣服が濡れそぼり、少女の豊かとはいえない肢体を浮かび上がらせていた。
上等な衣服だとひと目で知れた――それだけに、少女は哀れに見えた。
だが、何よりも彼女が惹かれたのは、少女の眼だ。
小さなアーモンド型の相貌は、諦めを知らなかった。
小さな身体を寒さに震わせながら、手足を縮こまらせて、それでも少女は諦めていなかった。
少女の意思――何かに向けられた闘争心とでも呼ぶべきもの。
彼女の身に刻まれた経験が、それを肌に感じ取っていた。
なんて、愛しい――そう、感じた。救いたいと思った。
独善的な考えではない――簡潔にそれは母性と呼ぶべきものだからだ。
親が子を救おうと思う心は、偽善ではない。
「……ねぇ、あなた……私の家に、来ない?」
気づけば彼女は少女に傘をかざし、そう聞いていた。
少女の視線が突き刺さる――警戒と怯えの入り混じった眼差し。
それを、正面から受け止めた。
時間が経った――数十秒か、数分か、数十分か。
時間が必要だった。
室温におかれた氷が溶けだすように、少女の心が溶けるのを待った。
自分の存在が少女を冷たい氷から救い出すのだと、直感があった。
彼女は微笑を絶やさない――そう、教わった。
――かつて、この少女と同じ眼差しをしていたころに。
「うー……!!」
やがて、気づけば雨も止んだころ。
少女の表情が和らぎ、年相応の幼さを浮かべて、そのまなじりに涙が浮かんだ。
その身体を抱きかかえて、懐かしの我が家へと彼女は歩き出す。
まずは、お風呂ねぇ♪――心のうちで、これからのことを考えながら。
――それは、天啓だった。
三年ぶりに戻った街――かつて暮らした住まい。
その入り口に程近いゴミ捨て場の片隅に、彼女はそれを見つけた。
――少女だった。
雨が降っていた――春を迎えていない雨は冷たく、少女の身を濡らしていた。
身にまとう衣服が濡れそぼり、少女の豊かとはいえない肢体を浮かび上がらせていた。
上等な衣服だとひと目で知れた――それだけに、少女は哀れに見えた。
だが、何よりも彼女が惹かれたのは、少女の眼だ。
小さなアーモンド型の相貌は、諦めを知らなかった。
小さな身体を寒さに震わせながら、手足を縮こまらせて、それでも少女は諦めていなかった。
少女の意思――何かに向けられた闘争心とでも呼ぶべきもの。
彼女の身に刻まれた経験が、それを肌に感じ取っていた。
なんて、愛しい――そう、感じた。救いたいと思った。
独善的な考えではない――簡潔にそれは母性と呼ぶべきものだからだ。
親が子を救おうと思う心は、偽善ではない。
「……ねぇ、あなた……私の家に、来ない?」
気づけば彼女は少女に傘をかざし、そう聞いていた。
少女の視線が突き刺さる――警戒と怯えの入り混じった眼差し。
それを、正面から受け止めた。
時間が経った――数十秒か、数分か、数十分か。
時間が必要だった。
室温におかれた氷が溶けだすように、少女の心が溶けるのを待った。
自分の存在が少女を冷たい氷から救い出すのだと、直感があった。
彼女は微笑を絶やさない――そう、教わった。
――かつて、この少女と同じ眼差しをしていたころに。
「うー……!!」
やがて、気づけば雨も止んだころ。
少女の表情が和らぎ、年相応の幼さを浮かべて、そのまなじりに涙が浮かんだ。
その身体を抱きかかえて、懐かしの我が家へと彼女は歩き出す。
まずは、お風呂ねぇ♪――心のうちで、これからのことを考えながら。
02080013 | Day32 -潰想- |
-ⅰ-
身に迫る気配――さりとて、敵意もなし。
感じられるのは倦怠感と、綯い交ぜになった使命感。意図不明な存在感。
「はは……本当に来やがったよ、全く欲の強い」
声は頭上からした。
姿を現した気配の主――絶壁の崖に腰掛けた、ぼさぼさ黒髪の中年男。
目元を隠すサングラス、合間から覗く細目、何よりも目立つ極彩色のアロハシャツ、
黒いジーンズの足元はラフなビーチサンダル。
口元に浮かべたニヒルな笑みが、倦怠感をさらに倍増――日向に寝そべる雄ライオンの風情。
その背後に隠れ見える絶大な力――何かしら、焦げ付いた臭い。
よっこらせ――腰に手をあてて立ち上がる、伸びをする。
「いよッ! 太古の記憶が眠るこの地にようこそ」
軽薄な挨拶――へらへらと笑いながら頭をかく。
それから、足元を確認し、跳んだ――かなりの高さを飛び降りて、着地。
バランスを崩すが、両の手を振り回してどうにか持ちこたえた。
「ととっ……ふぅわぁ危ねぇ危ねぇ……、もう歳かねぇ。
……あーっと、俺はイガラシっつー……まぁ下っ端だな、うん」
聞いてもいない自己紹介を始めるのは、男なりに職務に忠実な証左か。
下っ端という響きが気に入ったか、しししと笑みを漏らしながら不揃いの顎髭をざりざりと触る。
「訳あってここの宝玉ってのを守ってんのよ。あぁ、宝玉ってのはえぇっとー……」
手のひらをひらひらと振るい、言葉を続け、その手を崖に触れさせた。
赤い光とともにその指先が、ずぶりと崖の中へと侵入する――溶け入っているようにも見える。
何事もなかったように引き抜かれた指先に、鈍い光――深く輝く鮮烈な臙脂色。
石の放つ熱気が、恭平の頬まで届いた。
「……うん、これね」
炎熱を放つ石を指先に摘み、軽々しく放ってみせる。宙で再び手におさめる。
ころころと転がして、手のひらがなんともないことをアピール。
「なんか熱そーだけどぜーんぜん……触ってみる?」
にっこりと笑顔――石を恭平へと差し出し、その反応も得られぬまま即座に引っ込めた。
呆れ顔の恭平――意に介さない男のマイペース。
「なーんてなっ! 俺はこれ守ってんだよ、渡せねぇよぉ。
まぁでもそちらさんはこれを集めるとー……って噂でやってきたんだろ? 知ってるぜ?」
見え隠れする何者かの意思がここでも露となった。
宝玉を守る者たち――それは、何故? この男は下っ端といった、ならばそれを指示したものがいる?
気づけば男は、ひょひょいと岩山を登ろうとしていた。
途中で、恭平が後に続いてないことに気づき振り返る。
「こっち広いんでこっち来なッ! 俺を負かしたら宝玉をやるよ」
手を大げさに振って、こっちに来いと表現――大人しく従い、後を追う。
その途中で、息を荒らげる男を、恭平はさっくりと追い越した。
岩山を登りきると円状の開けた土地がある――確かにここならば存分に動ける。
少し遅れて登りきった男――イガラシは、息を整えると準備運動を開始した。
「どうやらもう宝玉を手にしているようだしなぁ……」
背を伸ばして気持ちよさそうにしながら、恭平の荷袋に光る青い宝玉を目ざとく見つけ出す。
宝玉同士の共鳴――水の宝玉が放つ青がいつも以上に輝いている。
火と水の関係――相反する属性同士。宝玉も互いを牽制しあっているのかもしれない。
「ちょっくら気合入れてやるかねっ!」
たっぷりと身体をほぐした男が、気合を入れるように間延びした声を張り上げた。
びりびりと大気が振動――同時、男を描くように炎柱が大地を裂いて出現。
宝玉とは違い、この炎はまぎれもなく岩を溶かし、激しい炎熱を放っている。
「……ずいぶん、嘗めた炎だな」
傭兵の眼差し――短剣を抜き放ちながら、奥歯をぎりりと噛み締める。
飄々とした黒髪の男――その、いやらしいともとれる笑顔に、かつての記憶が蘇りつつあった。
――忌まわしい傭兵たちの記憶。
身に迫る気配――さりとて、敵意もなし。
感じられるのは倦怠感と、綯い交ぜになった使命感。意図不明な存在感。
「はは……本当に来やがったよ、全く欲の強い」
声は頭上からした。
姿を現した気配の主――絶壁の崖に腰掛けた、ぼさぼさ黒髪の中年男。
目元を隠すサングラス、合間から覗く細目、何よりも目立つ極彩色のアロハシャツ、
黒いジーンズの足元はラフなビーチサンダル。
口元に浮かべたニヒルな笑みが、倦怠感をさらに倍増――日向に寝そべる雄ライオンの風情。
その背後に隠れ見える絶大な力――何かしら、焦げ付いた臭い。
よっこらせ――腰に手をあてて立ち上がる、伸びをする。
「いよッ! 太古の記憶が眠るこの地にようこそ」
軽薄な挨拶――へらへらと笑いながら頭をかく。
それから、足元を確認し、跳んだ――かなりの高さを飛び降りて、着地。
バランスを崩すが、両の手を振り回してどうにか持ちこたえた。
「ととっ……ふぅわぁ危ねぇ危ねぇ……、もう歳かねぇ。
……あーっと、俺はイガラシっつー……まぁ下っ端だな、うん」
聞いてもいない自己紹介を始めるのは、男なりに職務に忠実な証左か。
下っ端という響きが気に入ったか、しししと笑みを漏らしながら不揃いの顎髭をざりざりと触る。
「訳あってここの宝玉ってのを守ってんのよ。あぁ、宝玉ってのはえぇっとー……」
手のひらをひらひらと振るい、言葉を続け、その手を崖に触れさせた。
赤い光とともにその指先が、ずぶりと崖の中へと侵入する――溶け入っているようにも見える。
何事もなかったように引き抜かれた指先に、鈍い光――深く輝く鮮烈な臙脂色。
石の放つ熱気が、恭平の頬まで届いた。
「……うん、これね」
炎熱を放つ石を指先に摘み、軽々しく放ってみせる。宙で再び手におさめる。
ころころと転がして、手のひらがなんともないことをアピール。
「なんか熱そーだけどぜーんぜん……触ってみる?」
にっこりと笑顔――石を恭平へと差し出し、その反応も得られぬまま即座に引っ込めた。
呆れ顔の恭平――意に介さない男のマイペース。
「なーんてなっ! 俺はこれ守ってんだよ、渡せねぇよぉ。
まぁでもそちらさんはこれを集めるとー……って噂でやってきたんだろ? 知ってるぜ?」
見え隠れする何者かの意思がここでも露となった。
宝玉を守る者たち――それは、何故? この男は下っ端といった、ならばそれを指示したものがいる?
気づけば男は、ひょひょいと岩山を登ろうとしていた。
途中で、恭平が後に続いてないことに気づき振り返る。
「こっち広いんでこっち来なッ! 俺を負かしたら宝玉をやるよ」
手を大げさに振って、こっちに来いと表現――大人しく従い、後を追う。
その途中で、息を荒らげる男を、恭平はさっくりと追い越した。
岩山を登りきると円状の開けた土地がある――確かにここならば存分に動ける。
少し遅れて登りきった男――イガラシは、息を整えると準備運動を開始した。
「どうやらもう宝玉を手にしているようだしなぁ……」
背を伸ばして気持ちよさそうにしながら、恭平の荷袋に光る青い宝玉を目ざとく見つけ出す。
宝玉同士の共鳴――水の宝玉が放つ青がいつも以上に輝いている。
火と水の関係――相反する属性同士。宝玉も互いを牽制しあっているのかもしれない。
「ちょっくら気合入れてやるかねっ!」
たっぷりと身体をほぐした男が、気合を入れるように間延びした声を張り上げた。
びりびりと大気が振動――同時、男を描くように炎柱が大地を裂いて出現。
宝玉とは違い、この炎はまぎれもなく岩を溶かし、激しい炎熱を放っている。
「……ずいぶん、嘗めた炎だな」
傭兵の眼差し――短剣を抜き放ちながら、奥歯をぎりりと噛み締める。
飄々とした黒髪の男――その、いやらしいともとれる笑顔に、かつての記憶が蘇りつつあった。
――忌まわしい傭兵たちの記憶。
02080011 | Day31 -童心- |
-ⅰ-
目覚めは、激痛をともなった。
森の奥深く、横たわる牙狼の亡骸――その内に抱かれた男、孤独な傭兵。
憔悴した頬には二条傷――臆病なうさぎが隠した牙、鳴尾恭平。
安らぎではない眠りから帰還した男は、憔悴しきっていた。
彼を死の半歩前まで追い詰めた強敵――物言わぬ亡骸たる密林の野獣。
牙もつ狼が残したもの――雑菌による発熱。
死へと半歩まで踏み込んでいた恭平を、高熱はさらなる苦境へと追いやった。
朦朧とする意識、視界はぼやけ、指先は麻痺した。
傭兵の選択――早急なる睡眠。
生存に一縷の望みと、闘争の意志を強く秘めて、恭平は牙狼の亡骸に寄り添い眠りについた。
それが昨晩――傭兵は朝日を再び目にした。
生き延びたのだ。
病魔は最も恐ろしい敵だった。
直接的な脅威は、取り除くこともできる。敵は、打倒すればいい。罠ならば、取り除けばいい。
いかに屈強な傭兵であろうと、歴戦の戦士であろうと、極小の細菌を切り刻むことはできない。
ここが都市ならば、有効な処方もあるかもしれない。
医学は進歩している。
しかし、それも限られた環境にあってのことだ。
鬱蒼とした密林――ここは、人間の土地ではない。
守られた環境を一歩踏み出せば、人も数ある獣のひとつに過ぎないのである。
獣は自然界のルールに逆らうことはできない――すなわち、食うか、食われるか。
頼りとなるのは、己の力だけ――眠りの狭間で繰りひろげられたのは、恭平と病との死闘である。
「……くっ」
朝日が、眼に差し込んで思わず顔を背けた。
発熱の影響か、いつも以上に光がまばゆく感じられ、直視に耐えなかったのだ。
牙狼の毛皮にもたれかかるようにして、光を避ける。
すっかり体温の去った肉体だが、恭平自身の熱が移り、よい防寒具と化していた。
恭平が病との戦いに勝利した理由のひとつ――病をもたらした牙狼が残した温もり。
季節は冬に差し掛かって久しい。
吐く息も白くなるほどにこの森も寒い。
その中にあって恭平が凍えずにすんだのは、牙狼の巨体が風防となってくれたからだ。
「……」
呼吸を整えて、じっくりと光に目を慣らす。
白んで見えた世界が、次第に色を取り戻し、いつもの風景が恭平の前に戻ってきた。
むしろ、以前よりもよく見えるぐらいだ――視神経が刺激されているのかもしれない。
「……強敵だった」
立ち上がり、恭平は倒れふした戦士にわずかながら黙祷をささげた。
勝負を分けたのは、最後の一撃。
牙狼の強力な歯牙が、恭平の身体をとらえていたなら、相打ちとなっていただろう。
あの一瞬――相手の肉体に短剣を打ち込みながら、刺さった刀身を支えとして恭平は跳躍した。
牙狼は恭平の眼前を通り抜け、そして、力尽きた。
恭平もまた、受身も取ることができず地面に叩きつけられたが、彼は生きていた。
そして、今も生きている。
二つの勝利を胸の内に隠し、恭平は感傷をぬぐい捨てた。
ただでさえ行程は遅れている。
体力も完全には戻っておらず、万全とは言いがたいが先を急がなければならない。
「……急がなくては、な」
ふらふらと歩きながら、恭平は自分の荷物を探した。
近くの草むらに倒れているそれを発見し、肩に担いで牙狼の遺体まで戻る。
「……お前に、感謝する」
そして、短剣を抜くと、恭平は静かに作業を開始した。
目覚めは、激痛をともなった。
森の奥深く、横たわる牙狼の亡骸――その内に抱かれた男、孤独な傭兵。
憔悴した頬には二条傷――臆病なうさぎが隠した牙、鳴尾恭平。
安らぎではない眠りから帰還した男は、憔悴しきっていた。
彼を死の半歩前まで追い詰めた強敵――物言わぬ亡骸たる密林の野獣。
牙もつ狼が残したもの――雑菌による発熱。
死へと半歩まで踏み込んでいた恭平を、高熱はさらなる苦境へと追いやった。
朦朧とする意識、視界はぼやけ、指先は麻痺した。
傭兵の選択――早急なる睡眠。
生存に一縷の望みと、闘争の意志を強く秘めて、恭平は牙狼の亡骸に寄り添い眠りについた。
それが昨晩――傭兵は朝日を再び目にした。
生き延びたのだ。
病魔は最も恐ろしい敵だった。
直接的な脅威は、取り除くこともできる。敵は、打倒すればいい。罠ならば、取り除けばいい。
いかに屈強な傭兵であろうと、歴戦の戦士であろうと、極小の細菌を切り刻むことはできない。
ここが都市ならば、有効な処方もあるかもしれない。
医学は進歩している。
しかし、それも限られた環境にあってのことだ。
鬱蒼とした密林――ここは、人間の土地ではない。
守られた環境を一歩踏み出せば、人も数ある獣のひとつに過ぎないのである。
獣は自然界のルールに逆らうことはできない――すなわち、食うか、食われるか。
頼りとなるのは、己の力だけ――眠りの狭間で繰りひろげられたのは、恭平と病との死闘である。
「……くっ」
朝日が、眼に差し込んで思わず顔を背けた。
発熱の影響か、いつも以上に光がまばゆく感じられ、直視に耐えなかったのだ。
牙狼の毛皮にもたれかかるようにして、光を避ける。
すっかり体温の去った肉体だが、恭平自身の熱が移り、よい防寒具と化していた。
恭平が病との戦いに勝利した理由のひとつ――病をもたらした牙狼が残した温もり。
季節は冬に差し掛かって久しい。
吐く息も白くなるほどにこの森も寒い。
その中にあって恭平が凍えずにすんだのは、牙狼の巨体が風防となってくれたからだ。
「……」
呼吸を整えて、じっくりと光に目を慣らす。
白んで見えた世界が、次第に色を取り戻し、いつもの風景が恭平の前に戻ってきた。
むしろ、以前よりもよく見えるぐらいだ――視神経が刺激されているのかもしれない。
「……強敵だった」
立ち上がり、恭平は倒れふした戦士にわずかながら黙祷をささげた。
勝負を分けたのは、最後の一撃。
牙狼の強力な歯牙が、恭平の身体をとらえていたなら、相打ちとなっていただろう。
あの一瞬――相手の肉体に短剣を打ち込みながら、刺さった刀身を支えとして恭平は跳躍した。
牙狼は恭平の眼前を通り抜け、そして、力尽きた。
恭平もまた、受身も取ることができず地面に叩きつけられたが、彼は生きていた。
そして、今も生きている。
二つの勝利を胸の内に隠し、恭平は感傷をぬぐい捨てた。
ただでさえ行程は遅れている。
体力も完全には戻っておらず、万全とは言いがたいが先を急がなければならない。
「……急がなくては、な」
ふらふらと歩きながら、恭平は自分の荷物を探した。
近くの草むらに倒れているそれを発見し、肩に担いで牙狼の遺体まで戻る。
「……お前に、感謝する」
そして、短剣を抜くと、恭平は静かに作業を開始した。
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